惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談④



信長公記」内の記述には、天正十年三月三日

中将信忠卿、上ノ諏訪表ニ至ツテ、御馬ヲ出ダサレ、所々
放火。抑、当社諏訪大明神-------神殿ヲ初メ奉
リ、諸伽藍悉ク一時ノ煙とナサレ、御威光、是非ナキーー

とあり、織田信忠諏訪大社上社本宮を焼討ちしたことを記してい
ます。

寺社への放火は、敵領に侵攻した軍隊の、戦術セオリーによるもの
であり、潜在的軍事施設の排除と精神的支柱を破壊することで、戦
意を喪失させる目的がありました。

信長は信濃に入ると、諸寺社に禁制を発給しており、諏訪大社にも
付与されており、大社全体が焼け落ちたのでないことがわかります
。信長は諏訪大社内の法華寺に本陣をおき、ここで論功行賞が行わ
れ、甲斐国を河尻秀隆に、上野国を滝川一益に与えます。(光秀
戦闘史Ⅱ⑮)

この諸将が集まった席で、信長から光秀は辱めを受け、頭を欄干に
押し付けられたといいます。

信長による光秀暴行事件は、バリエーションが豊富で感心してしま
いますが、この話も創作の域を出ません。

信忠はちょうど一ヶ月後に、もう一つ焼討ち事件を起こします。

四月三日、恵林寺で寺中の老若上下百五十人を山門へ追い上げ、
籠草をつませて、火をつけ焼殺しました。

この親にしてこの子ありのたとえどうりの行動ですが、原因は佐々
木氏一族の六角義定を恵林寺内で匿っており、その引渡しをめぐ
るトラブルからで、恵林寺住職快川紹喜が焼殺されています。

しかし犠牲者は快川長老一人ではなく、東光寺、宝泉寺、長善寺、
長円寺など他の禅寺の長老も含まれており、ドサクサにまぎれての
敵性勢力の一掃であったことがわかります。

信玄以来の、禅宗各派に対する武田氏の保護政策は過大であり、
宗教勢力からの武田氏の影響力排除がその主眼点にありました。

しかし織田軍のこれらの強圧的政策は、民衆の反発を招き、信長の
死後、即座に土豪らの武装蜂起が始まり、河尻秀隆は殺害されます。

快川長老は、美濃国の稲葉氏との関係が深く、土岐氏に連なるもの
であるといわれています。

光秀重臣斉藤利三の縁戚者には、妙心寺管長であった人物がいて、
光秀も快川長老のことは知っていたでしょうが、その関係性はわかり
ません。(光秀とその時代⑯)

恵林寺での禅僧らへの焼殺行為が、光秀が本能寺で信長を討ち果
たす原因の一つであるとの見方がありますが、その根底には、信長
とその後継者信忠の宗教政策、すなわち政教分離政策があり、叡山
焼討ちの中心人物である光秀が許容できるものでした。



法華寺山門
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