惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史Ⅱ㉒)

 
 

天正十年四月二十四日、織田信長細川藤孝、一色五郎に対して

、秋に予定していた毛利領への侵攻戦を、羽柴秀吉からの一報が入
りしだい、自ら出陣し敢行する旨伝え、軍備を整え待期するよう命じ
ます。

又その詳細については惟任光秀より伝達させるとあります。武田氏
討伐を終え、安土へ帰還したその日に、次なる戦いに臨む信長の意
気込みが感じられます。

光秀が甲斐からの帰還後も畿内の軍団を統率する立場にあり、信長
からの信任も変わりないことがわかります。

甲斐侵攻戦には、洛北武士団や志賀郡の土豪らを中心とした部隊が
明智秀慶とともに参加しており、明智秀満斉藤利三は、丹波各城
の城代として留守を任されていました。

毛利氏との戦闘には、秀満や利三が指揮する丹波衆が動員され、そ
れに丹波に新たに所領を与えられた旧奉公衆らが加わり、一万程度
の動員数であったと思われます。

光秀は、甲斐国より帰還すると、丹波に向かい、毛利との戦闘に備え
軍備を整えていました。

「兼見卿記」によれば、五月十三日

長兵滞留也、明日下向安土云々

とあり、細川藤孝が兼見邸に滞在し、翌日安土に向かうとあります。
又藤孝から聞いた情報として

明日十五日徳川至安土被罷上也、就其各安土祇候云々、徳川
逗留安土之間、惟日在庄之儀自信長仰付、此間用意馳走以外也

と記しており、十五日徳川家康が安土に到着し、織田家の武将が安
土城に参上するとあります。

光秀が家康の安土城滞在のあいだ、その接待にあたるとあり、丹波
の出陣の用意から離れ、坂本に戻りその任にあたるよう、信長自ら命
じられたとあります。

家康接待の重責は、光秀にこそふさわしく、信長の光秀に対する信任
が厚いことがわかります。

五月十七日、「多聞院日記」によれば、筒井順慶は安土から大和に帰
還したとあります。家康接待の一連の行事が無事終了したのでしょう。

又順慶は、廿日に、西国出陣の為に部隊を編成する予定であると記さ
れており、順慶にも光秀同様十七日に西国出陣の陣触がでたことがわ
かります。

五月廿一日、家康は信忠とともに都へはいります。

家康は、重臣のほぼ全員を引きつれての初めての安土城訪問ですが、
これは、徳川軍が織田軍とともに毛利氏との戦闘に参加する為の準備
行動でした。

甲斐侵攻戦にも参戦した徳川軍の再整備が完了し、三河遠江から部
隊が到着すれば、即西国に向けて出陣できる態勢であり、織田軍との
連繋を含めて重臣たちは情報収集にあたっていたのでしょう。

信長にとり、毛利氏との主力決戦は最大願望であり、毛利氏の持つ海
上利権により集積された財富は、信長の心を魅了していました。

光秀も順慶同様、十七日ごろには安土を離れ、坂本から丹波へと帰還
し出陣の用意に忙殺されていたでしょう。


安土城 大手道
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