惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会②)




長期わたり南北に分裂していた天皇家が合一した時には、天皇家を頂点とする
公家社会はその政治的権限をすべて室町幕府に奪われ、その権威も形骸化し
ていました。

朝廷は幕府の支配体制を儀礼等で補完するだけの存在として位置づけられ、そ
の経済的基盤である地方の荘園からの収入も、幕府の保護のもと限定した形で
都へもたらされていました。

応仁の乱は、守護制度の解体を招き、幕府の全国支配を終了させました。各地
では飢餓と貧困が蔓延し、武装した領主は、武力をもたない天皇家荘園を真っ
先に支配下に置いて税の独占を図りました。

幕府の弱体化により、朝廷運営の為、幕府からもたらされる財政支援も滞り、
天皇家および公家社会は貧困の極みに追いやられました。

朝廷での儀式(朝儀)は開催困難な状態となり、深刻なことに、即位礼など最
重要な儀礼まで実施不能になりました。

それどころか、天皇の死去による葬儀までもがその費用が捻出できず、後奈良
天皇にいたっては、その遺骸は三ヶ月以上、御所内に放置されました。

天皇家とその地位および朝廷はその存続すらも危うい状態に陥り、天皇の命令
を受けた山科言継らは、各地の有力領主のもとを金策の為訪れています。

はっきり言って、この時代の天皇・公家社会は自壊していてもおかしくない状態で
した。崩壊しなかったのは心ある少数の公家らの努力があり、彼らは全国を行脚
金策を模索し、都の文化を拡散させることで、朝廷の存在意義を地方に知らし
めました。

この時代、天皇に近侍していた者は数十名ほどで、その他は禁裏小番衆といわ
れる中級公家が交代で同数程度出仕していました。この程度の陣容すらも維持
困難な状態であり、彼らは足利氏に代わる新たなる庇護者の出現を熱望しまし
た。




後奈良天皇宸翰女房奉書(直筆)

内容は公家観修寺尹豊が都の屋敷を売り払い、加賀へ移
住しようとするのを思いとどませるよう、弟の尊鎮法親王
依頼するものである。朝廷業務に専念するよう述べていま
すから、生活苦で都を離れる公家も多かったのでしょう。天
皇も大変でした。
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