本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会③)
家柄であり、言継は経済的困窮の極みにあった天皇のもとで、内蔵頭と御厨
子所別当として、朝廷内の財政管理にたずさわっていました。
山科郷を所領としたのがその名字の由来であり、大納言を極官とする羽林家
でした。
山科家も都の他の公家同様、応仁の乱で危機的な状況におかれますが、山
科家筆頭家礼、大沢久守の尽力により危機を脱します。大沢重康、久守、重
胤によって書かれた「山科家礼記」はこの時代を知る貴重な史料となってい
ます。
美濃国多芸庄は同国伊自良庄とならんで、古くから禁裏料所として、朝廷の財
政を支えてきました。
榛木の地頭職を拝領しています。(光秀の出自と前半生⑤)
永禄年間においても、多芸と伊自良の二庄は天皇領所としての扱いであり、こ
こから米が都に運ばれていましたが、足利幕府の弱体化により滞ることも多か
ったのでしょう。永禄十年(1567年)、正親町天皇は、新たな濃尾の支配者で
ある織田信長に、料所の回復を求めています。
しては美濃の料所には関心があったのでしょう。
大沢久守は、幕府奉行人飯尾氏と縁戚関係を形成しており、言継の時代におい
ても、光秀ら奉公衆と言継の密接な繋がりをみてとれます。
明智頼重が知行をまかされた多芸嶋榛木は、江戸時代までその地名が残ってい
ます。
皇領の監視ならびに税の収納などを行い、現地支配を榛木に本拠地をおいて行
っていたのでしょう。
ここに、山科言継と光秀の朝廷財政についての関係性の断片を見て取ることが
でき、光秀の過去を解き明かす鍵があるのかもしれません。
大神宮領多芸庄椿井郷納帳