惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会④)





元亀二年正月五日、山科言継邸を

中山前亞相、中院、堀川近江守、笠井源太夫、紹巴、昌叱、心前、加田新左衛
門尉、速水彦太郎、立入左京進、観世三郎らが年賀の挨拶に訪問します。

公家、武家連歌師、役人から能役者までいて、言継の交際範囲の広さを窺い
知ることができます。

立入左京進立入宗継といい、禁裏御蔵職にあり、朝廷の金銭の出入りや年貢
米の管理等にあたり言継の仕事上の協力者でした。

近江源氏佐々木氏の出であるといわれますが、出自等は不明な部分が多い人物
です。代々近江にある禁裏領からの年貢を扱っており、年貢が銭納や為替支払い
に転化する中で金融業も営み、公家等に金を貸し付け、借金の返済が滞ると公家
が近江等に持つ荘園年貢を代理で徴収する権利を得ていたのかもしれません。

官位は従五位下でしたが、明治政府により従二位を贈られています。大正時代に
従一位を贈られた言継とともに、朝廷のため金策に飛び回っていたのでしょう。

永禄七年、十年の二回にわたり宗継は、織田信長のもとを訪れ、美濃国にある禁
裏領の回復等を、正親町天皇の代理として伝えています。

美濃には、伊自良庄、多芸庄の二ヶ所の御料所があり、多芸庄の管理に関しては
山科家は深く関わってきましたが、応仁の乱後すべての権利を喪失しました。

地頭として多芸庄榛木に拠点をもうけた明智家と山科家との関係性は、室町初期
にまでさかのぼることができ、光秀が朝廷の財政に深く関わっていくことからも、
光秀の出自のいずれかがこのあたりにあると推測できます。

立入宗継は「立入左京亮入道隆佐記」を記しており、その中で光秀のことを

美濃国住人ときの随分衆也  と述べ  名譽之大將也弓取はせんじてのむ
べき事侯  と絶賛しています。光秀が丹波の禁裏領を回復したことが、よほど
嬉しかったのでしょう。(光秀戦闘史㊿)

織田信長が光秀に命じて、山科家らの荘園を調査させた時、言継は光秀に、多芸
庄等からの年貢は八十年にわたって納められていないと述べています。

美濃国では、土岐氏内部で守護代らの争いが起こり、混乱を極めており、長亨二
年(1488年)には、朝廷から、多芸庄での徴税の請負代理人として斉藤利藤が補
任されていますが、都へは一銭たりとも届いていなかったようです。

この利藤は斉藤利三の祖父にあたるとの説がありますが確たることは不明です。