惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑤)




永禄十年八月、織田信長は斎藤氏を追放し美濃国を制圧します。
翌九月には、多芸庄椿井郷宛に禁制を発給しています。

当郷之儀、依為大神宮領、伊勢寺内相構之旨、得其意候

とあり、伊勢神宮領である椿井郷での陣取を禁止し、神宮領を安
堵しています。天正九年にも、織田信忠により同領を安堵する制札
が立てられ、一貫して織田政権の神宮領に対する庇護が継続して
いることがわかります。

古来この神宮領は神餞を調達進上する役目を持つており、御厨と
よばれ朝廷の管理下にありました。

山科家は御厨子別当としての家柄であり、朝廷財政を管理して
おり、この信長による禁制は、対朝廷政策の一環であると読み取
れます。

織田信長のこうした朝廷政策は、来るべき近江侵攻戦への布石で
あったのですが、そこに足利義昭が転がり込んでくることで様相は
更に高度化し複雑化していきます。

腕っ節は強いが情報戦に疎い織田家中には適任者は少数であり、
猪子兵助、下石頼重らの美濃系の管理人材が登用される際に、義
昭との関係性の有無は別として、信長配下に組み込まれたのが光
秀でした。

いずれにせよ、日々の食事にまで困窮を来たした天皇や公家にとっ
て、織田信長という人物は救世主以外の何者でもなかつたのは間
違いありませんでした。




多芸庄椿井郷公田年貢銭帳(永禄年間)
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