続濃州余談⑥
ます。正親町天皇御寵愛の目々典待との密通を疑わたのがその理由でし
た。
天皇の怒りは激しいもので、永禄十三年に通俊の父晴通は、信長の仲介で
愛妾広橋局を猪熊教利に奪われた後陽成天皇の例からも、この種の俗事に
対する天皇の反応には手厳しいものがあるのがわかります。(濃州余談㊱)
社長のオキニに手を出した若い社員に、過度の制裁が出される現在に相通
じるものがあります。
者同士理解しあえるものがあったのでしょう。
ませんでした。
父天皇の俗事の仲裁役として、まだ若い誠仁がふさわしいと思われていたの
は、彼の人間性と度量の大きさを皆が認めていたからなのでしょう。
父、正親町帝や子、後陽成帝と違って、誠仁親王は上臈(正妻)勧修寺晴右
娘晴子とのあいだに、没するまでに六男七女をもうけており、仲のいい夫婦だ
ったのがわかります。
第五王子五宮は織田信長の猶子となり、信長の京都制圧以後、誠仁は二条
御所を与えられ、織田家中からは今上帝とよばれていました。
誠仁は和歌に熱心であり、二条御所内で頻繁に歌会を催し、この時代の和歌
世界の中心的人物の一人であり、ここに里村紹巴との関係性をみてとること
ができます。
誠仁は社寺への参詣に熱心で信仰心の厚さをみてとれます。天正四年の石
山寺参詣には公卿衆ら五百人ほどが付き従ったとあり、この頃にはこれら行
事を容易に遂行できるほど、朝廷の経済状態が改善していたことがみてとれ
ます。
石山寺東大門