惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑥



永禄十一年(1568年)、権大納言久我通俊は勅勘をうけ、その職を解かれ
ます。正親町天皇御寵愛の目々典待との密通を疑わたのがその理由でし
た。

天皇の怒りは激しいもので、永禄十三年に通俊の父晴通は、信長の仲介で
万里小路惟房らを通じ天皇に赦免を求めますが、許されませんでした。

結局通俊は、最後まで天皇からの許しは得られず、天正三年堺で没します。

愛妾広橋局を猪熊教利に奪われた後陽成天皇の例からも、この種の俗事に
対する天皇の反応には手厳しいものがあるのがわかります。(濃州余談㊱)

社長のオキニに手を出した若い社員に、過度の制裁が出される現在に相通
じるものがあります。

通俊はこの時、まず誠仁親王に父天皇へのとりなしを求め面会します。若い
者同士理解しあえるものがあったのでしょう。

しかし誠仁親王、信長らの動きにもかかわらず天皇は勅勘を解くことはあり
ませんでした。

天皇の俗事の仲裁役として、まだ若い誠仁がふさわしいと思われていたの
は、彼の人間性と度量の大きさを皆が認めていたからなのでしょう。

父、正親町帝や子、後陽成帝と違って、誠仁親王は上臈(正妻)勧修寺晴右
娘晴子とのあいだに、没するまでに六男七女をもうけており、仲のいい夫婦だ
ったのがわかります。

第五王子五宮は織田信長の猶子となり、信長の京都制圧以後、誠仁は二
御所を与えられ、織田家中からは今上帝とよばれていました。

誠仁は和歌に熱心であり、二条御所内で頻繁に歌会を催し、この時代の和歌
世界の中心的人物の一人であり、ここに里村紹巴との関係性をみてとること
ができます。

誠仁は社寺への参詣に熱心で信仰心の厚さをみてとれます。天正四年の石
山寺参詣には公卿衆ら五百人ほどが付き従ったとあり、この頃にはこれら行
事を容易に遂行できるほど、朝廷の経済状態が改善していたことがみてとれ
ます。



石山寺東大門
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