続濃州余談⑦
います。永禄十一年には、久我通俊を女性関係のもつれから禁裏より
追い払い、通俊の死まで許すことがありませんでした。(続濃州余談⑥)
職を解かれ、翌年失意のなか死去しています。理由は定かではありま
せんが、通俊同様俗事からくるものであったのでしょう。
に勅勘をもって追放しています。通勝は丹後国に幽閉されますが、面
識のある細川藤孝のもと、和歌の研鑽を積みます。
年老いても、女性関係にはまめであった天皇の一側面がみえ、精力的
に活動する人であったただろうと推測できます。
名を勅勘をもって禁裏から追放します。
言経は山科言継の子であり、権中納言の職にあり、言継なきあと山科家
当主の立場にありました。
この三名が勅勘をうけた理由は定かではなく、言経に関しては、山科家
領と禁裏領のあいだでの争いにあると言われていますが、他の二名に
関しては、全く不明と言わざるを得ません。
この三人には共通点があり、ともに誠仁親王の側近でありました。言経
は、誠仁の親王宣下以来その傍らに控え、活動を補佐しました。
冷泉為満は、為益の子であり、その姉妹は誠仁親王の女子を出産して
おり、誠仁側近として影響力を持っていました。
四条隆昌は、もともとは冷泉家の人間であり為満の兄にあたります。こ
の三人が勅勘をもって禁裏を追放されたことには、誠仁には心中穏やか
でないものがあったと思えます。
ります。
中院通勝 和歌