惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑥)



天文五年(1536年)、近衛前久は関白稙家を父として誕生します。母慶子は細川
高基の娘であり、久我通言の養女として嫁ぎました。稙家の妹慶寿院は、十二代
将軍足利義晴正室であり、十三代義輝、十五代義昭の生母です。

近衛前久には武家の血が色濃く流れ、彼の公卿らしからぬ言動を理解することが
できます。
義輝正室は前久の妹であり、近衛家日野家にかわり将軍家正室の座を独占し
ていました。

近衛家は信長の上洛以前も、天皇や他の公卿の貧窮ぶりに比較すると、その家計
は裕福でした。
近衛家の荘園は近江、山城国など都の近隣に多く、将軍家との関係から押領され
ることもすくなく、安定した収入を確保することができました。

近衛家の荘園の数は、前久の時代においても百ヶ所を超えており、有名なものに
革嶋荘があります。

この荘園を管理していた革嶋氏は、佐竹源氏の末裔といわれ、織田信長入京後、
所領を安堵されます。本能寺の変以後は、明智秀慶との関係性から光秀に味方し
ますが、光秀の敗北により没落します。

この時代、近衛家をはじめ摂関家は、天皇家から独立して経済基盤を構築してお
り、その家産経済が天皇の朝廷活動に貢献することはありませんでした。

関白位は近衛家らの摂関家が独占していましたが、彼らは朝廷活動から距離を置
いており、天皇を支えていたのは中下流の家柄の公家たちでした。

天皇は政治の場からはすでに退出しており、正親町天皇の女性関係のもつれによ
る勅勘乱発からもその事実がみてとれます。

前久の子信尹は父同様近衛家武家化を推し進めていきます。そこに近衛家の未
来をみたのですが、秀吉、家康らの思惑とは大きく乖離していました。
あろうことか信尹は秀吉に朝鮮への従軍を申し出たといいます。これを秀吉は公家
武家政治への干渉とみなし、後陽成天皇の勅勘でもって薩摩坊津へ追放します。

前久、信尹らこの時代の近衛家当主が、信長、秀吉ら時の権力者に翻弄されなが
らも必死に生きようとした様がわかり、朝廷という組織の一員としての行動ではな
いことも同時に理解できます。