本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑥)
高基の娘であり、久我通言の養女として嫁ぎました。稙家の妹慶寿院は、十二代
できます。
ていました。
は裕福でした。
ることもすくなく、安定した収入を確保することができました。
近衛家の荘園の数は、前久の時代においても百ヶ所を超えており、有名なものに
革嶋荘があります。
この荘園を管理していた革嶋氏は、佐竹源氏の末裔といわれ、織田信長入京後、
ますが、光秀の敗北により没落します。
り、その家産経済が天皇の朝廷活動に貢献することはありませんでした。
る勅勘乱発からもその事実がみてとれます。
来をみたのですが、秀吉、家康らの思惑とは大きく乖離していました。
あろうことか信尹は秀吉に朝鮮への従軍を申し出たといいます。これを秀吉は公家
前久、信尹らこの時代の近衛家当主が、信長、秀吉ら時の権力者に翻弄されなが
らも必死に生きようとした様がわかり、朝廷という組織の一員としての行動ではな
いことも同時に理解できます。