惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑦)



近衛家と薩摩島津氏の交流関係は深く長い。島津氏は本姓は惟宗氏であり
帰化系氏族秦氏の流れを汲み、惟宗忠康が平安末期、摂関家筆頭近衛家
の所領薩摩島津荘に荘園管理者として下り、その子忠久が島津氏を名乗っ
たのが始まりといわれています。

忠久は源頼朝落胤であるとの説がありますが真偽のほどは不明です。惟
宗行治、行長等の名前は、戦国時代の資料のなかに近衛家の家僕として記
されており、近衛家と島津家の関係をうかがわせます。

近衛前久の祖父尚通や父稙家も、島津家と深く関わり合い、書状のやりとり
を行っています。

近衛前久は関白在任中の永禄三年、長尾景虎のいる越後へ下向します。そ
の理由は、景虎の武威により、混迷する都周辺の情勢を安寧にすることにあ
りましたが、結局景虎は動かず、永禄五年都に戻ります。

これは朝廷の意を受けたものではなく、前久独自の判断によるものと思われ、
織田信長に擁立された足利義昭が上洛すると、義昭と相性の悪い前久は突
如都から出奔します。

前久は摂津、丹波を渡り歩き、公卿らから関白御浪人と揶揄されています。
このあたりの経緯は、闇の中のことであり、天正三年、織田信長は正親町天
皇に、前久の帰洛を訴えていますから、なにか不祥事があったのかもしれま
せん。

「御湯殿上日記」にも同年六月前久赦免のことが記されていますが、前久は
九月には、島津氏を頼り、薩摩へと船出しています。

前久が薩摩を離れ都の政治に復帰するのは、天正五年のことであり、この前
久という人物は、放浪癖のある良家のぼんぼんである、といったところが当た
らずとも遠からずでしょう。

この近衛前久も、秀吉同様、信長の手駒の一人として利用されましたが、天
性の脳天気さと武家好みから、信長との相性はいいものがあったようです。



惟宗(島津)忠久
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