本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑦)
の所領薩摩島津荘に荘園管理者として下り、その子忠久が島津氏を名乗っ
たのが始まりといわれています。
宗行治、行長等の名前は、戦国時代の資料のなかに近衛家の家僕として記
されており、近衛家と島津家の関係をうかがわせます。
近衛前久の祖父尚通や父稙家も、島津家と深く関わり合い、書状のやりとり
を行っています。
の理由は、景虎の武威により、混迷する都周辺の情勢を安寧にすることにあ
りましたが、結局景虎は動かず、永禄五年都に戻ります。
これは朝廷の意を受けたものではなく、前久独自の判断によるものと思われ、
如都から出奔します。
前久は摂津、丹波を渡り歩き、公卿らから関白御浪人と揶揄されています。
皇に、前久の帰洛を訴えていますから、なにか不祥事があったのかもしれま
せん。
「御湯殿上日記」にも同年六月前久赦免のことが記されていますが、前久は
九月には、島津氏を頼り、薩摩へと船出しています。
前久が薩摩を離れ都の政治に復帰するのは、天正五年のことであり、この前
久という人物は、放浪癖のある良家のぼんぼんである、といったところが当た
らずとも遠からずでしょう。
この近衛前久も、秀吉同様、信長の手駒の一人として利用されましたが、天
性の脳天気さと武家好みから、信長との相性はいいものがあったようです。
惟宗(島津)忠久