惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑧)



すでに述べましたが、近衛前久の父稙家の妹は、室町幕府十二代将軍足
利義晴の正室であり、十三代義輝、十五代義昭の実母であり、慶寿院と呼
ばれました。

又前久の妹二人はそれぞれ足利義輝朝倉義景に嫁ぎ、近衛家と足利家
のこの時代における、密接な繋がりを見て取れます。

永禄八年(1565年)、足利義栄を奉じて、三好三人衆と松永勢は義輝の籠
る二条城を襲撃します。前日、一旦は都からの撤退を決意した義輝でした
が、義輝側近、奉公衆一同の籠城徹底抗戦の意見に押し切られ戦端を開
きました。

数に勝る三好勢らに、義輝は善戦しますが、武運つたなく惨殺されます。
母慶寿院も自決を余儀なくされますが、義輝正室のみは近衛家に送り返さ
れ生き長らえます。

信長の軍事力を背景とし、三好勢を駆逐して上洛した足利義昭は、兄義輝
殺害の張本人の一人に近衛前久がいたとみなしていたとされます。

近衛前久と三好勢らとの接点には不明瞭なところが多いのですが、足利義
栄の将軍就任に前久が関与していることは確かで、、前久妹のみが生き残
ったこととあわせて、義昭と同調した前関白二条晴良らにより、都より追放
されます。

このあたりは、本能寺の変後、織田信孝に、光秀蜂起に加担したとして、追
及され、三河徳川家康のもとに逃げ込んだパターンと全く一致し、興味深
いものがあります。

しかしこの人物の一連の行動をみていると、三好勢を裏で動かし、義輝暗
殺を策し、近衛家を政権中枢に押し上げる意志があったとはとても思えま
せん。
そこにあるのは、前久の脳天気な注意力散漫であり、そこからうまれる不用
意な言動でした。

近衛家荘園の足利化を目論む義昭の術中にはまり、朝廷内部の権力闘争
の標的にされ、都近辺を漂流することとなった前久の姿にそれをみてとれま
す。

足利義昭織田信長羽柴秀吉そして明智光秀らに政争の道具として使わ
れ翻弄された人物がまさしく近衛前久でした。