本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑨)
の時代の歌会をリードする存在でした。道澄は兄前久とともに、越後へ下
は幅広く、僧侶の枠から逸脱する部分を持つ人物でした。
道澄の歌会における初見は、永禄四年、里村紹巴と同席の「何路百韻」で
あり、その後もこの二人は、常に行動をともにしていました。
道澄、紹巴、実枝の三人は毛利家からの依頼で、先年死去した毛利元就
出しています。
繁く参加し、誠仁親王も含めた知的トップエリート層を形成していました。
道澄は歌会における一字名を白といい、光秀との歌会に度々参加してい
み合った彼らの交友関係を、これら歌会の中にみてとれます。
光秀は、紹巴(臨江斎)に道澄宛に言伝を依頼しています。(光秀と信長⑫)
光秀は聖護院(聖門)より頂き物をして、そのお礼に伺わなければいけな
いのに、恐らくは軍事的理由で丹波へ至急向かうこととなり、うまく取り繕
ってくれないかと述べています。
この三者の交友の深さと気安さが文面から感じ取れます。
聖門様ヨリ両種拝領、誠過當存候。則参上仕雖申上候。
丹州ヘ指急候条、無其儀候。御取成所迎候。毎々忝存候。
恐々謹言。
十月四日 光秀(花押)
臨江斎 床下
光秀の、織田家中内での軍事的指導者としてのポジションの高さだけではな
く、信長の命令をすべてに優先する姿勢がそこにはみてとれます。
この手紙には都の知的エリート層と文化的に交流する光秀の姿があり、又織
田家重臣として、問答無用で信長の為戦闘に赴く意志を感じ取れます。