惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊵

 
 

永禄11年(1568年)7月、足利義昭越前国一乗谷を出て、美濃国岐阜に到着

します。信長の動きは迅速で、「御湯殿上日記」の9月26日条に

一てういんとの(足利義昭)、きよみつまで御しやうらく、みつふちきやうふのたゆ
ふ(三淵兵部大輔)、みやういん(明院)まいられて、おたのかつさ(織田上総)お
ほせつけられ、御けいこ(警固)かたくもうしつけられーーーーーーーーーーーー

とあるように、九月下旬には都を制圧し、禁裏を管理下においています。

御所の警固に当たったのは、細川藤孝と明院良政で、十月には藤孝は大和国
定戦に参加しています。

明院良政は信長の祐筆であった人物で、この時期活動の跡がみられます。

戦闘が一段落した十一月十五日、藤孝は連歌会を興行します。
何路連歌百韻興行「雲に月」。連衆は

良政(明院)、藤孝、白(聖護院道澄)らと紹巴、清誉、昌叱、心前らの連歌
師であり、彼らと共に光秀の名前が初めて登場します。

この時点で、光秀が関白近衛前久実弟の聖護院道澄、紹巴そして藤孝らに
混じり連歌会に参加していることは、既に光秀がそれなりの教養と地位を身
につけていた人物である証とみられます。

しかし希代の知的エリート武将である細川藤孝は、この頃の光秀の句作を、
展開、構成ともに稚拙であるとこき下ろしています。

明智氏連歌に対する傾倒は伝統的なものであり、藤孝、紹巴との交際は
連歌を通じて深く長く続いていきます。(四人の天下人⑭)(光秀の出自と前
半生④)