惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑧




足利義輝の壮絶な戦死により、室町幕府はその歴史的使命の終焉と組織
の最終的崩壊に至った、と考えて間違いないでしょう。

幕府再興を願う義輝は近衛家と密接な関係を作り上げていましたが、彼等
摂関家はあっさりと義輝を見捨て、三好一族ら時の権力者にすり寄ります。

足利氏十五代の将軍のうち二人が家臣により殺害されています。義満の毒
殺説を含めれば三人になるのですが、とりあえず義満は除外します。

嘉吉元年(1441年)六月二十四日、室町殿(六代将軍義教)は、二条以北
にある赤松教康の屋敷で赤松家家臣により殺害されます。

義輝謀殺と本能寺の変の類似性はあまりないのですが、この嘉吉の乱とい
われる一連の騒動における初期過程は、光秀による信長謀殺に類似した部
分が多く含まれています。

名ばかりの将軍義輝と違い、義教はまぎれもない最高権力者でした。その威
勢は信長以上のものであり、頭脳の明晰さ、手腕そしてその辣腕ぶりは一種
の恐怖政治に近いものを全国にもたらしていました。(濃州余談㊳)

義教は山名氏、畠山氏ら幕府重臣である有力守護大名家の内紛に介入し、
それら家門の勢力を分断することで弱体化させ、幕府権力の絶対化を画策
しました。

その矛先は、斯波氏、一色氏ら足利支族にとどまらず、大内氏土岐氏
も対象となり、彼らは勢力を大きく削られました。

赤松教康の父満祐は、赤松家惣領でしたが、義教は庶流である将軍近習
の持貞を引き立てます。赤松家は、ただでさえ庶家の惣領家からの独立性
が強く、危機感を抱いた満祐が、義教弑逆に及んだというのが実際のとこ
ろです。

義教は、幕府の意向に異を唱える延暦寺を、信長同様武力制圧し管理下に
おきます。

義教の治世の初期は、畠山満家ら有力な補佐役があり、将軍との合議制が
その政策立案の根幹をなしていましたが、山名常熙ら重臣の相次ぐ死去に
より彼の独裁的な性格が露呈してきます。

治世後期にはやりたい放題となり、ブレーキのきかない状況に陥っていまし
た。永亨から嘉吉への年号の変更は、義教の強い希望で行われたといいま
す。

改元から四ヵ月後、義教の頸は、近習山名熙貴の頸とともに、教康の刃先に
突き刺され、曝されながら都を後にしました。

この義教の頸が投げ込まれたのが、光秀の娘、玉の菩提寺でもある大阪市
東淀川区にある崇禅寺ですが、不思議な縁を感じます。

この義教の死をもって、幕府は崩壊へと向かっていきます。




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