惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑩)



尚々、御料所事、得其意候、上洛之刻、カタカタ可申述候也、芳札排坡、
承悦之至候、先度鱈進入候付而、御懇示給候、御心サシ計候ツル、将
亦、木練一籠、即賞翫無他候、フト可為上洛候之間、以面展可申入候
                             カシク
                             信長(黒印)
         近衛殿                信長

これは近衛家に残る、信長が近衛前久に送った、年代不明な礼状です。
信長が前久に鱈を送ったお礼に、前久から甘柿(木練)が届けられた
のに礼を述べたもので、前久は信長に料所の給付を求めています。

信長と前久の関係は極めて良好で、信長が前久と都での再会を楽しみ
にしている様子がみられます。

この種の信長からの書状が近衛家には四通残っています。そのすべてに
 期面拝抛筆候  期後日候  以面謁可申述候 とか都での再会を
楽しみにする旨の記述が残り、二人の円満な関係が見て取れます。

しかし信長は前久よりも役者が上で、近衛家がもつ名目的権威や縁戚
関係を利用しつくします。対本願寺戦末期の前久の働きは格別であり、
九州における、島津、大友の覇権あらそいの調停を前久に依頼してい
ます。

前久が光秀の信長謀殺の黒幕であるとの説は、織田信孝近衛前久
に不審な動き有り、と追求した事に起因しており、その後前久が徳川家
康を頼り三河へ赴いたことで、確信を持って語られることがあります。

しかし前久の一生をみてみれば、前久が信長謀殺の核になれる人物で
はないことは一目瞭然であり、信長と光秀の関係性崩壊の中で、どさく
さに乗じた織田氏残党の、近衛家所領の接収から逃れる、前久の姿を
そこにみることができます。

信長が

来年於芸州可出馬候、其刻別而御入魂、対天下可為大忠義、
尚近衛殿可被仰候間、閣筆候 恐々謹言

島津義久に書き送っているように、前久は信長の天下統一事業に最後
まで協力を惜しまなかった人物でした。(明智資料⑦)


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