惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑪)




天正三年、織田信長近衛前久に、山城国内で三百石を与えます。

山城国五箇庄八拾并西院内百石。西九条内四拾石余・唐橋拾石・
岩倉谷諸散在七拾石余等事、為新地進覧候、全可有御直務之状
如件、             天正三年十一月六日  
                 近衛殿     信長(朱印)  

都から遠方の実体のない所領ではなく、直接赴くことのできる場所で
もあり、前久の喜びは格別だったことでしょう。

同時に、同じく摂関家当主である一条内基には百石を、西院内で与
えています。

近衛前久に対する優遇ぶりは際立っており、それは信長から関白二
条晴良にあてた手紙の書面からも見て取れます。

昨日従曇花院殿興福寺々務事被仰候、今日令直談候之処ーーーー
為家門可被仰調事専一候、自然申掠叡慮ーーー御意見肝要候ーー
                 二条殿         信長(花押) 

天正八年以降の花押で年代が推定できますが、前久宛の書状に対し
て信長の晴良に対する高圧的な態度がみてとれます。(光秀と朝廷・
公家社会⑩)

内容は、曇花院(後奈良天皇皇女)が興福寺の人事の件で申し入れ
を信長に行っており、昨日直接話したら話が食い違っていた。それは
晴良がしっかりしてないからであり、叡慮(天皇の意見)を持ち出して、
話を大きくしたら、晴良が藤原家家門の長として調整せよ、と指示して
います。

近衛前久はその子供らに、信長から口約束であるが、一国を拝領す
る約束を頂いていると述べています。信長らしいかませですが、前久
はその言葉を、信長死去の日まで信じていたことでしょう。

天正八年本願寺との和約に尽力する前久に対して、信長は

今度大阪之使御苦労共候ーーーーーーー

ではじまる朱印状を与え、その苦労を労っています。信長と前久は最
後まで相性のいい二人でした。




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