惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑫)



天正三年三月十四日、織田信長は徳政令を発し、門跡、公家衆の借銭、借
米を帳消しにします。

経済的苦境にあった公家衆を救済する為のものであり、債権者に対する軍
事的威圧をともなうものでした。

又信長は、近衛前久摂関家当主や寺社門跡に新地を付与し、生活の安定
を図ります。正親町天皇には、莫大な砂金を献上し、信長は右大将に就任し
ました。

この一連の流れを信長による復古政策とみなす説があります。信長を勤皇主
義者として評価する原点はこのあたりにあるのですが、信長の真の狙いは別
の所にありました。

新たに制圧した越前国では、公家、寺社らに本来属するべき荘園が解体され
柴田勝家前田利家らの大名領へと形を変化させていきます。

しかしそれは徳川幕府による近世知行制と違い徹底したものではなく、信長
の時代には完成することはありませんでした。

信長の対朝廷、公家政策はその宗教政策同様、武辺道をもって公家社会、宗
教勢力からの政治的、思想的影響力を排除するものであり、その改革事業の
大半は信長の強力な個性により推し進められ、公家社会と宗教勢力は武家
統制化されることとなりました。

信長のこの政策遂行の背景には絶対化された強力な軍事力があり、その土地
再配分のプロセスには、信長の恣意的な決定が見え隠れし、多くの矛盾を生
み出していきます。

光秀の信長謀殺の原因のひとつに、信長の土地政策に関する恣意的な判断が
あることは間違いないでしょう。

天正九年十月二日、信長は前田利家に対し能登一国の支配権を与えます。そ
れと同時に、利家が知行していた越前での土地は、その居城から家臣の家屋ま
で新任者の蜂屋長頼に一切合財引き渡すよう厳命しています。(光秀と秀吉⑥)

これは幕藩体制下の知行制に極めて類似していますが、残念ながら信長の土
地政策は常にこのように徹底してはおこなわれず、その都度場当たり的に行
われることが数多ありました。

秀吉や利家のような連中には充分通用する言動も、光秀ら旧体制の残照を色
濃く残す文化人には、受け入れにくいものがあった、と容易に推測できます。

光秀にとって、信長の対朝廷、公家政策ならびに、延暦寺本願寺らの宗教
勢力制圧の過程は充分に容認できるものであり、延暦寺領の大部分は光秀が
継承していきます。

光秀謀反の原点には、このように変化する新時代を形成する信長の土地政策
があり、その矛盾が露呈したものでありました。


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