惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑨




天正九年四月七日、織田信長は森乱(成利)宛に、朱印状を発給し
所領を給付します。江州知行分とあり、すでに成利は知行地を美濃
國にも所有していたのでしょう。朱印状には

一  薬師村      百弐拾石 一  須恵村      五拾石 

等現在の近江八幡市近郊の土地が五百石ほど記され

都合五百石并被官等事令扶候訖、全可領知候成 とあり 森乱法師
殿 と宛名書きされています。

法師とあるのは、前年本願寺との和議が成立する際、成利実母の
妙向尼がこの仲介にあたっており、子供一人を出家させることを条
件に提示しており、これと何らかの関係があるのかもしれません。

この頃信長が、将来の織田家の中核になりうる人物に、所領を給付
しているのは大変興味深いものがあります。

天正八年、信長は佐久間信盛林秀貞らを突如追放します。佐久間、
林らの知行地の実態はよくわかつていませんが、かなりのものがあっ
たと思われます。

信長は色々難癖をつけて、これら古くからの重臣らの入り組んだ、本
拠地尾張、美濃の所領を取り上げ、信忠とその重臣らに再配分する
作業がこの追放劇でしたが、本能寺の変によりその大部分は戦死し
てしまいました。

美濃、尾張地域における織田家家臣の当時の所領が不明瞭である
ことはこのあたりと関係があるのかもしれません。

敵対勢力、公家社会、宗教勢力そして家臣にさえも信長の所領再配
分の戦いが躊躇無く行われており、足利義教の恐怖政治に近いもの
が発芽しはじめていました。(続濃州余談⑧)



妙向尼
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