惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑬)




弘治三年、方仁親王は、父後奈良天皇の死去により、正親町天皇として即位します
が、費用不足の為、即位礼が挙行されたのは三年後でした。

この時の費用の大部分は、毛利元就からの献金によるもので、足利将軍家は即位礼
挙行に対し冷淡な態度をとります。

「言継卿記」には、即位礼に対する、関白近衛殿の無関心ぶりが記されています。

警固役には三好長慶があたり、本願寺顕如の代理として、下間、庭田の両名が供奉
しました。本願寺は当時朝廷に対する援助者で多額な献金をしていました。

天皇がその初期に、毛利氏および本願寺から資金的援助を受けているのは興味深い
ものがありますが、毛利氏に敵対する尼子氏対策ならびに本願寺キリスト教宣教
師追放を目的とする実利的なものでした。

その後も天皇、朝廷の困窮さは改善する事無く、永禄十年(1567年)、天皇美濃国
を制圧した織田信長に対し、美濃、尾張天皇領の回復、御所修理ならびに誠仁親王
元服費用の供出を求めています。

翌年九月、信長は足利義昭を擁して上洛します。この時朝廷は、義昭と対立する義栄
を将軍に補任しており、信長の出方に不安を抱きます。

信長は細川藤孝らを御所に派遣し警備にあたらせ、不安感を払拭し、更にご祝儀とし
て銭百貫を、又誠仁親王元服費用三百貫を供出し、あわせて天皇領の知行回復を約
します。

さらに荒廃していた御所の修理にとりかかり、朝廷運営費用捻出の為、京の町衆に米
を貸し付け、その利息を朝廷の歳入にあてました。

このように信長は、京制圧の初期段階から天皇、朝廷に対し保護政策をとり、光秀ら
をその任にあたらせました。