惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑭)




南北朝内乱の終結をもって天皇、朝廷は、すべての政治的機能を室町幕府
奪われ、足利将軍ならびに幕府の権威を補完する存在となることで、生き長ら
えます。

応仁の乱により、幕府の守護体制による全国統治は終焉を迎え、戦国時
代が到来することで、地方にある天皇や公家の荘園からの収入が途絶し、又
幕府からの朝廷運営の為の援助資金が見込めなくなります。

後柏原天皇の即位礼の為に、朝廷が幕府に要求した五千貫は、なんと百貫に
減額されて支給され、その実施は見送られました。

管領細川政元は、苦情を言う朝廷に対し、「おおげさな即位礼は必要なし。私
が後柏原を天皇と思っているからそれでいい。」と嘯きます。

幕府の衰退により朝廷の経済状態は更に悪化の一途をたどり、経済的に余裕
のある近衛家らの摂関家は、独自の生活基盤を求め、朝廷から独立した活動
を行う中で、天皇と経済的利権をめぐり対立します。

信長上洛以前の都の状況はこのようなもので、朝廷自体も幕府同様崩壊の危機
に直面していました。

天皇の執務機関はすでに存在せず、天皇の意思を伝達する文書も、天皇の身の
回りを世話する女房たちにより女房奉書として作成されました。

多くの公家衆は収入の見込めない朝廷での仕事を見限り、荘園のある地方に土
着するなどして都を離れました。

天皇のまわりには、女房衆や小者が数十名程度いるのみで、御所には警備要
員さえおらず、たびたび盗賊被害にあっています。

この天皇家を実質的に支えていたのは、禁裏小番衆といわれる極官を大中納言
とする名家等の中流公家たちでした。

彼らは天皇とその家族に近侍し、その関係は密接でした。天皇の妻である典待な
どは禁裏小番衆の家の出であり、これら数十家の公家集団が朝廷雑務を担って
おり、戦国大名らから官位叙任等をうけおうことで、そこに生活の糧を求めまし
た。

しかし、戦乱の激化でそれすらも危うい状態となり、山科言継のように地方の有
力大名に金策を依頼するために下向する事態が発生しています。

応仁の乱後、信長、秀吉の登場するまでの時代は、天皇家、朝廷の最も衰微した
時代であり、崩壊の危機に、足利将軍家同様直面していました。