惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑮)




永禄三年正月廿七日、正親町天皇の即位礼が挙行されました。

「言継卿記」によれば、
今日御即位未刻始、----傳奏三人也、傳奏三人初例也 と記され
午後二時頃開始されたとあり、伝奏が三人であることは、初めてのことであると
嘆いています。又御手水役 右大臣、----劔内待長橋局、璽新内待九才
とあり、新天皇印を9才の童が持つことになったのを嘆き、即位礼に出席した
関白近衛前久を、朝廷の祭事に久しぶりに参席したと皮肉っています。

毛利元就からの献金により、何とか開催にこぎつけた即位礼の様子がわかり
ます。

正親町天皇は、清廉潔白なイメージのある後奈良天皇の子として生まれます。
後奈良天皇は宸筆の書を売り家計の足しにしていたといいます。三条西実隆
清原宣賢が学問の師であり、孫の誠仁親王同様、文化人的色彩の強い人で
した。

父、子に比較して正親町天皇のイメージは固定しにくいものがあります。朝廷
内での女性関係の乱れから、勅勘を乱発し、廷臣を追放するその姿からは精力
的で政治性の高い人物のようにもとれます。

正親町天皇本願寺との関係が深く、多額な献金をうけることで、その権勢拡大
に貢献しました。

その姿勢は献金による朝廷への介入を嫌った、父後奈良天皇とはあきらかに
異なるものであり、比叡山延暦寺とともにキリスト教排斥運動を行うことも厭い
ませんでした。

信長に、どこかこの天皇を遠ざけている雰囲気があるのは、天皇のこうした政治
活動があると思われます。



イメージ 1