本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑯)
、又足利一門の勢力をそぐことで、嫡流家の独裁体制構築を図りました。
しかし彼の突然の死で、その試みは未完のまま終わります。
義満の死後その策動は彼の子らにより是正されましたが、天皇、朝廷に対す
る非融和的な高圧政策は、継続して歴代の将軍に引き継がれます。
られ、その運営費用はすべて室町幕府が補填し、幕府経済の弱体化により、
その開催すらも困難な状態に陥りました。
天皇のしたたかさや老獪な政治手法は、その産物でした。
の乱を経て、幕府の権威の失墜がはじまり、天皇、朝廷は独自の生活確立
の道を探りはじめます。
まめさにみられるように精力的に活動する人でした。
信長の都政界への登場により新たな一歩を踏み出していきます。
全国的に認知させる官位を付与する存在として位置づけられる事で、再生の
道を歩み始めていました。
模索し始めていた天皇、朝廷を、その軍事活動を補完する存在として活用して
いきます。
光秀が、歴史への登場時点から、信長の朝廷政策の遂行者であり、又有力な
立案者でもあったことは間違いありません。
光秀と正親町天皇の接点は見つけ出す事はできません。しかし信長が都政界
へ登場した時期、上洛時光秀邸に逗留したのち、参内していることからも、光
秀が朝廷内部の動きに精通していただろう、と推測できます。