惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑯)




足利義満は中国思想をその国政に取り込むことで、天皇の権威を失墜させ
、又足利一門の勢力をそぐことで、嫡流家の独裁体制構築を図りました。

しかし彼の突然の死で、その試みは未完のまま終わります。

義満の死後その策動は彼の子らにより是正されましたが、天皇、朝廷に対す
る非融和的な高圧政策は、継続して歴代の将軍に引き継がれます。

天皇、朝廷は、足利将軍家の権威を、儀式等で補完する存在として位置づけ
られ、その運営費用はすべて室町幕府が補填し、幕府経済の弱体化により、
その開催すらも困難な状態に陥りました。

正親町天皇在位の初期は、まさしく天皇家崩壊の危機を内包した時代であり、
天皇のしたたかさや老獪な政治手法は、その産物でした。

足利将軍家の権威と天皇、朝廷の儀礼活動は一体化していましたが、応仁
の乱を経て、幕府の権威の失墜がはじまり、天皇、朝廷は独自の生活確立
の道を探りはじめます。

独自の経済基盤を持つ摂関家は朝廷の儀礼等に参加しなくなり、この時代
天皇を支えていたのは中下流の公家達でした。

室町幕府が任命する守護職に変わり、古代の律令的官位が象徴的権威とし
て、戦国大名の領地支配を正当化するものとして用いられ、天皇、朝廷がそ
の機能を擬制的に回復し始めた時代に正親町天皇はいました。

正親町天皇は、その父後奈良天皇の清廉潔白に比較して、その女性関係の
まめさにみられるように精力的に活動する人でした。

信長は天皇の政治性を嫌いその子の誠仁親王への接近を図りますが、天皇
親王の不和を伝える史料はみあたりません。いずれにしろ天皇と朝廷は、
信長の都政界への登場により新たな一歩を踏み出していきます。

天皇、朝廷は幕府権威の崩壊により、各地の戦国大名から、その領地保全
全国的に認知させる官位を付与する存在として位置づけられる事で、再生の
道を歩み始めていました。

信長は、足利義昭追放後、天皇、朝廷に飴と鞭を使い分け、独自の政治活動を
模索し始めていた天皇、朝廷を、その軍事活動を補完する存在として活用して
いきます。

光秀が、歴史への登場時点から、信長の朝廷政策の遂行者であり、又有力な
立案者でもあったことは間違いありません。

光秀と正親町天皇の接点は見つけ出す事はできません。しかし信長が都政界
へ登場した時期、上洛時光秀邸に逗留したのち、参内していることからも、光
秀が朝廷内部の動きに精通していただろう、と推測できます。