惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑰)




足利氏一門による全国統治が終焉を迎え、その守護制度が下克上の流れの
中で崩壊する中、各地で勃興した戦国大名はそれに替わる、領土支配の正当
性を、朝廷の認可のあるなしに関わらず、律令制官位を名のる事で誇示しまし
た。

室町幕府の各種束縛から解き放たれた、天皇、朝廷は独自の方向性を見出し
つつあった、とも言えますが、その経済的苦境からは脱してはおらず、後奈良
天皇の葬儀、誠仁親王立太子礼の開催等、朝廷行事の停滞は正親町天皇
を悩まし続けていました。

天皇は、信長上洛以前の都の支配者であった三好三人衆と友好な関係を構築
しながらも、その敵対勢力である足利義昭とも通じており、三好政権に擁立さ
れた足利義栄の将軍宣下を引き延ばしながら、自己の政治性を高めていました。

言い方を変えれば、天皇は幕府の衰退により、武士社会の対立から超越した
存在になりうることが可能となり、正親町天皇の政治性が発揮する場所が与え
られた、と言えるかも知れません。

しかしこの状態は言い方が悪いかもしれませんが、糸の切れた凧のようなもの
で、明確な庇護者の喪失であり、経済的苦境の脱出につながりませんでした。

正親町天皇は安定した経済基盤を天皇、朝廷に付与できる、新たなる権力者の
出現を熱望し、そこに足利義昭を奉じた信長が、都に現れることとなります。

天皇は信長入洛以前にすでに禁裏警固を命じており、天皇、朝廷の保護を信長
に求めています。

これは、天皇武家の君臣関係の上に成り立つもので、室町幕府治世下にはみら
れないものでした。

要するに武家の頂点は将軍であり、それを無視して天皇が命令を出すことは不可
能でした。又信長は禁裏警固を命じられることで、都での軍事行動の正当性を得
られたことになりました。

このように、この時代は天皇も新たな一歩を踏み出した時代であり、新たな都の支
配者となった、足利義昭織田信長そして正親町天皇三者それぞれの思惑が交
錯しはじめます。