本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑰)
中で崩壊する中、各地で勃興した戦国大名はそれに替わる、領土支配の正当
性を、朝廷の認可のあるなしに関わらず、律令制官位を名のる事で誇示しまし
た。
つつあった、とも言えますが、その経済的苦境からは脱してはおらず、後奈良
を悩まし続けていました。
れた足利義栄の将軍宣下を引き延ばしながら、自己の政治性を高めていました。
言い方を変えれば、天皇は幕府の衰退により、武士社会の対立から超越した
存在になりうることが可能となり、正親町天皇の政治性が発揮する場所が与え
られた、と言えるかも知れません。
しかしこの状態は言い方が悪いかもしれませんが、糸の切れた凧のようなもの
で、明確な庇護者の喪失であり、経済的苦境の脱出につながりませんでした。
出現を熱望し、そこに足利義昭を奉じた信長が、都に現れることとなります。
に求めています。
れないものでした。
能でした。又信長は禁裏警固を命じられることで、都での軍事行動の正当性を得
られたことになりました。
このように、この時代は天皇も新たな一歩を踏み出した時代であり、新たな都の支
錯しはじめます。