惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑱)





足利義昭は、兄義輝同様、室町幕府復権を目指しました。そこには従来からの
天皇、朝廷に対する幕府の軽視政策があり、しばしば新たに義昭周辺に形成され
た奉公衆は、公家領等の所有をめぐり、天皇とその側近らと争います。

義昭にはその中核的な軍事力になる奉公衆を繋ぎ止める為に、彼らに所領を与え
る必要があり、軍事力を持たない都周辺の公家、寺社領を押領しました。

兄義輝同様義昭と天皇、朝廷の関係は円満ではなく、後日義昭は信長に、朝廷に
対し不行届けありと糾弾されました。

信長が義昭を奉じて上洛した当時、織田軍が、圧倒的な軍事的優位性を畿内周辺
に有していたとはいえず、信長が美濃へ帰還すると、足利義栄を旗じるしに、三好
三人衆が、本国寺にいた義昭に襲いかかります。

信長公記」によると、光秀は細川藤孝らとともに、これを撃退するのに貢献した、
とあります。(光秀戦闘史③)

永禄十二年正月四日にこの本国寺の戦いがあったのですが、光秀は信長と共に
美濃へ帰還することなく、藤孝ら義昭側近と行動を共にしており、翌年姉川の戦い
後信長が光秀の都の館に逗留していることを考えれば、光秀はこの時点で都を中
心にして活動していた人物であることがわかります。

同年二月から、光秀は都ならびに山城国での文書発給作業に関与しています。

四月十六日、信長は、山城国山国荘における禁裏御料所の、宇津頼重による押領
停止を命じ、光秀はその旨を立入宗継に伝達します。

同十八日には、光秀は丹羽長秀らとともに宇津頼重に山国荘押領禁止を命じました。

この宇津氏は土岐頼遠の末裔であるといわれています。朝廷経済衰微の要因の一つ
に、この山国荘からの収入途絶があることは確かで、その回復作業に同じ土岐氏
ある光秀があたっていることは興味深いものがあります。

又、すでにこの時点で光秀と禁裏御蔵職である立入宗継との関係性を確認する事がで
き、光秀が歴史に登場する第一歩において禁裏領に関わっている事は、光秀がすでに
こういった作業に精通する人物であったことがわかります。(光秀と朝廷・公家社会
③④⑤)