惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑲)





宇津頼重は、光秀らからの山国荘等の押領停止命令を無視します。

更に信長と義昭の対立が始まると、頼重は義昭に接近し、幕府の御供衆に
取り立てられます。御供衆とは、義輝の将軍就任期には、三好長慶、松永久
秀らが御伴衆としてあり、幕府の中核的組織を担っていました。

これをみても、義昭と天皇、朝廷、信長とのあいだには対立関係が生まれて
いることがわかります。

永禄十三年三月二十日、正親町天皇は山科言継宛に女房奉書を発給し、勧
修寺晴右と二条昭実との所領をめぐる相論の裁許を足利義昭に求めます。

この争いは、加賀国井家庄にある勧修寺領に介入する二条家と勧修寺家の
争いで、泥沼化していました。

晴右娘晴子は天皇の唯一の男子誠仁親王の女房であり、後の後陽成天皇
実母でした。天皇の意向は当然勧修寺側の利益を代表していました。

翌二十一日、言継は義昭を訪ね、女房奉書を披露します。

これに対する義昭の返答は、勧修寺晴右は、義昭が近江に逃れていた頃、前
将軍義栄の為に奔走した過去があり許す事はできないとあり、一方二条昭実
は義昭が越前国朝倉館で元服の際、大変骨を折ってくれたと述べ、叡慮には
応じることができないと言継を追い帰します。

これを聞いた信長は、織田家の朝廷対策担当者である朝山日乗に対し、怒り
を露にしたとあります。

そこには全く私的な理由で、天皇の要請を無視し裁許する義昭の姿があり、天
皇と信長の面目丸つぶれの事態が展開していました。




正親町天皇宸翰女房奉書(理性院宛)
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