惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会⑳)




永禄十三年四月十九日、織田信長は参内し、朝倉討伐の為、「出陣御暇
乞」を奏上します。

正親町天皇からは「薫物」10貝を賜り、その足で御所修理の様子を見舞
い、誠仁親王から結花枝を下賜されました。

信長は翌二十日に出陣しますが、同時期に改元が行われ、二十三日年号
は元亀に変わります。

天皇は信長のことがよほど心配だったのでしょう。二十五日には内待所に
おいて千度祓が開催され、信長の戦勝祈願が行われました。

記載の重複がないとするなら、翌二十六日にも内待所において千度祓が行
われた、との記述が「御湯殿上日記」にあり、更に二十七日にも開催された
とあります。そこに天皇の信長の無事を祈るひたむきさをみてとれます。

二十八日には禁裏の御三間において、「五常楽急」100返、八幡御法楽
が行われました。これは岩清水八幡宮の御楽を修して信長の戦勝を祈願し
たものでした。

新たな都の支配者である信長への正親町天皇の傾注は、揺るぎないもの
でした。

しかしこの戦いは、浅井長政の敵対行為により散々な結果に終わり、信長
天皇の期待を裏切ります。

五月九日、近江へ再侵攻する信長に対し、天皇は公家達を禁裏に参内
せたうえ、山科言継から叡慮を在陣中の信長に伝えました。

その内容は、すみやかに都へ戻ってほしいとの天皇の気持ちであり、信長
は、その身は都から離れていても、朝廷に対する奉仕は継続していくから
安心して過ごして欲しいと答えています。

本当に新婚カップル同様なやりとりに苦笑してしまいますが、これが信長
天皇の関係性の原点であると認識して間違いないでしょう。





岩清水八幡宮
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