惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉑)

 
 
 

正親町天皇と信長の関係は、義昭追放後変化を見せはじめ、信長は誠仁親王

との交流を深めていきます。

もともと正親町天皇の即位礼は、資金不足の為開催困難となり、父後奈良天皇
崩御三年後、毛利元就献金によりとりおこなわれました。

天皇は、本願寺より多額な資金援助を受けており、本願寺門跡寺院化に貢
献し、本願寺によるキリスト教徒排斥の動きに手助けします。

弟覚恕法親王天台座主として、比叡山延暦寺の頂点にあり、信長による叡山
焼討ち後は、甲斐の武田信玄のもとに身をよせていました。

信長が、毛利氏、本願寺との対立を深め、延暦寺領の自己権益化、朝倉氏討伐
と続く流れのなかで、天皇の立場が確実に変化していったことは間違いないでし
ょう。

しかし朝廷財政のすべては都を制圧した信長の管理下にあり、天皇の意志どおり
に、例えば朝廷の専権事項である譲位すら、信長の経済的援助がなければできな
いのが現実でした。

正親町天皇から誠仁親王への譲位問題には諸説ありますが、現実的には誠仁親
王は、織田家家中では主上と呼ばれ、天皇の位置づけにありました。

これらはこの種の問題に対する信長の関心の低さにあり、又信長の経済的援助が
なければ、即位礼も開催できない事実からも、信長は正親町天皇の譲位には、賛
同していなかったと推測できます。

極論すれば、正親町天皇の方が、誠仁親王よりも政治的駒として使えると、信長が
判断していたのでしょう。

それは本願寺との和議に、正親町天皇がいずれにせよ信長、本願寺双方から利用
されたことからもわかります。毛利氏、本願寺らの勢力と関係性の深い天皇だから
こそ、綸旨の効果が誠仁親王よりもあらわれると、信長は判断していたのかもしれ
ません。

しかし、地方の一武士勢力である織田氏は、信長という稀有な個性により朝廷と渡り
合っているにすぎず、新たなる象徴的権威として、天皇復権しつつあることを見逃
していくことになります。




平成天皇即位礼
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