惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑫





正親町天皇の父、後奈良天皇の在位時、朝廷から寺社への勅使派遣は、
興福寺延暦寺大徳寺、北野社、岩清水八幡宮そして妙心寺に対して、
六月会、唯摩会開催や各寺の住職就任祝い等を目的としてなされました。

正親町天皇の御世になっても、大徳寺延暦寺等に変わらず勅使が派遣
され、朝廷と寺社の密接な関係をみてとれます。

信長は、上洛後の元亀二年(1571年)、延暦寺を焼討ちします。前年には、
延暦寺に対し、勅封をもって、烏丸光宣が派遣されていますが、焼討ち後、
朝廷から各寺社への勅使派遣は激減します。

信長が本能寺で死去する天正十年まで、勅使が派遣されたのは、天正
年の岩清水宮を除けば、妙心寺に対して、新住職就任、寺院建物竣工祝
いが計五回行われているのみで、派遣先寺院の偏りと減少が顕著です。

信長の死後、秀吉の時代になると勅使派遣が再開されており、寺院への
勅使派遣が、信長側、朝廷側のいずれかからによらず、意図的に制限さ
れたであろうと推測されます。

信長と関係の深い臨済宗妙心寺に限り勅使が派遣されているのは、朝廷
と宗教勢力の関係性を弱めようとする、信長の意向が強く反映されている
と思われます。

光秀は信長による延暦寺領強奪の中心的人物であり、光秀とその家中に
は、信長同様妙心寺との関係性が深くみてとれます。

朝廷は信長に気兼ねして、妙心寺以外の寺社には、勅使派遣を控えてい
たと考えられます。

そこには宗教勢力との戦争に専念する織田家の姿がみえ、その織田家
庇護された天皇、朝廷の当時の有様が如実に映し出されています。

しかし信長は天正十年、甲斐国武田領にて、その妙心寺派元管長である
快川和尚をはじめとする禅僧の焼殺を容認し、その対宗教政策はキリスト
教を除き、聖域なく容赦なきものに転化していきました。(続濃州余談④)


快川和尚
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