惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑪




現在の天皇家と宗教の関係は、天皇家が飛鳥・奈良時代以来、仏教を国家
統治の要とおいてきた歴史からみれば、極めて特異なもので、天皇神道
祭祀者のみに限定するものとなっています。

昭和天皇が魂の救いをキリスト教のなかに見出したように、室町時代天皇
は、死後、極楽浄土へ行くことを願い、死後神として祀られたい、という考え
は持ちえませんでした。

又当時は、朝廷の儀式は、古来からのものさえ、仏教のやり方でとりおこなわ
れ、天皇の葬儀そして即位の儀式も、仏式でおこなわれていました。

伊勢神宮は皇祖神を祀る宮ですが、伊勢国の織田領化のなかで、信長は神
宮を保護し、自らの正統性を高める為に、神宮に出陣時の祈祷を命じていま
す。

伊勢神宮でさえ、当時は神仏習合の宮でしたが、信長はここに手をいれ、統
一政権樹立後の天皇・朝廷のありかたから、仏教の政治的影響力を排除す
る試みを行っています。

この動きは秀吉へと受け継がれていきますが、幕末と同じように、動乱の時
代には、信長、秀吉のように、仏教と神道を分離しようとする策動がみられる
のには大変興味深いものがあります。

信長には、天皇・朝廷に対する、仏教勢力の政治的的影響力を徹底的に排
除しようとする動きがあり、吉田兼見という唯一神道を信奉する神官を、朝廷
内に取り込み、公卿に列していきます。

兼見と光秀の関係は密接であり、その思想性も、価値観を共有するものが、
ありました。光秀には、使った馬印にみられるように、唯一神道に共感する
ものがあったかもしれません。(明智資料㉗)