惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑬





信州真田家と光秀を産んだ明智家とは、意外なところでその接点を見
出すことができます。

真田昌幸の六女は、光秀正室煕子の里、妻木家の流れを汲む下郷
妻木家二代目妻木頼熊に嫁ぎ、その次男の妻木幸頼は、子がなかっ
た昌幸の孫、信吉の婿養子になっています。(濃州余談㉞)

要するに真田幸村の妹が、明智一族である妻木氏に嫁ぎ、妻木氏の
なかに真田の血を残していきます。

幸村の兄、信之の菩提寺は、妙心寺塔頭大法院であり、大法院は信
之の遺命で、孫娘長姫により創建されました。

妙心寺と土岐明智氏との関係は密接であり、真田氏と妻木氏との関係
性のなかで、墓所が設けられたのでしょう。

信之嫡男信吉は、上野沼田城主として三万石の所領をおさめていきま
すが、嫡出の男子を持てず、信吉の死後、複雑な後継者政策の影響で、
真田氏沼田藩は消滅の憂き目にあいます。

その後再度立藩を許された沼田領に入部したのが、土岐頼稔ですが、
頼稔は土岐定政の子孫であり、この系統は土岐明智氏の流れを汲んで
います。

一説には、定政の祖父頼明の兄頼典は、光秀祖父光継であるといわれ
ますが確たるものではありません。(光秀の出自と前半生⑥)

妻木家嫡流妻木家頼は、大阪城攻防戦に参戦しています。真田幸村
矛を交えたかもしれませんが、細川忠興とは懇意であり、大阪城から
逃亡する豊臣秀頼の子国松の身柄を、いったんは包囲確保しましたが、
解放したとの逸話が残っています。


妻木家頼具足
鉄砲による試射の跡が残り、極めて実戦的に
作られています。
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今年の大河はおもしろい。昌幸役の草刈
正雄さんの演技がすばらしい。
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