本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆①)
ない。父、母の名前どころか、生年月日さえもが闇に包まれている。
しかしこの人物が良質な一次史料のなかに登場する期間は十五年
以上におよび、この期間の足跡は確実にたどることができます。
たしかに当時は、現在のような情報化時代ではないですが、それだ
からこそ、交際する人物の個人情報は、当事者の安全を確保する
上で重要なファクターでありえた、と断定することができます。
題材としてその一生が描かれており、江戸時代においても衆人の
興味の対象でした。(光秀とその日常㉑)
しかし光秀に関しての実像は現在なにもわからなくなっており、そ
の行動の原点に何があったのか把握しにくくなっています。
私はこの人物は、当時から謎の多い人物だったと推測しています。
織田家中の武将でさえも、その概要は、年齢を含めて正確に把握し
ているのは少数であったと思われます。
その少数の者たちさえもが、本能寺の変およびその後の動乱で戦
死しており、羽柴秀吉による、緘口令および光秀に対する歪曲化に
より、光秀の個人情報は闇の世界に投げこまれました。
現在の我々が光秀の前半生を探るのは極めて難しくなっています
が、どこかに存在する良質な未発見の史料や伝承のなかに、光秀
研究の糸口を探せると確信し、光秀と幕府奉行衆・奉公衆との
関係について記述していこうと思っています。