惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆②)




明徳元年(1390年)、足利義満は美濃、伊勢を領する、有力守護家の一つ
である土岐康行を討伐し、翌明徳二年には、同じく丹波、丹後、和泉、出雲
の守護として、絶大な勢力を持っていた山名氏清・満幸を成敗します。

足利氏嫡流である将軍家の権力強化をめざした、義満による、守護勢力弱
体化の動きは、守護家内部の政争を利用した巧妙なものでした。

義満の巧みな挑発にのせられた山名氏清・満幸は軍を都へと進めます。迎
え撃つ幕府軍主力五千騎は内野に陣し、義満とその馬廻り五千騎は堀川
一色邸に控えたと伝えられています。

南朝に降り、錦の御旗を手中にした山名勢は、数手に分れ都に突入します。
主力の細川氏大内氏、畠山氏、赤松氏は苦戦しますが、一色氏、斯波氏、
そして義満馬廻りが参戦することで、幕府側が最終的に勝利します。

実際に戦闘に参加した馬廻りの実数は不明ですが、この義満馬廻り衆が奉
公衆へと転化していき、義教の時代に将軍家直轄軍として整備されていきま
す。

足利一族の連合政権である室町幕府では、守護に任ぜられた一族の軍事
力を軍制の基本においていましたが、義満、義教ら嫡流家の権力強化を目
指す将軍が登場すると、直属の軍事力が増強される動きがありました。

奉公衆という名称は、従来から存在する幕府の奉行衆が文官であり、奉公
衆が武官であるとの認識ですが、将軍に直属する家臣団、江戸幕府におけ
る旗本に近いイメージでとらえるのが妥当とおもわれます。

彼らは平時、将軍直轄領の代官としての業務等にあたり、戦時になれば番
を形成して、奉行衆とともに派遣軍に参加し将軍の遠征に随伴しました。

後に奉公衆として番帳に記される者の出身地には、義満により討伐された
土岐氏および山名氏が領した美濃、尾張、丹後、丹波、出雲および足利氏
権力地盤である三河である者が多くみられます。

土岐氏庶流である石谷氏、斎藤氏そして明智氏らは奉公衆であると記され
ますが、彼らがそれぞれの氏族の嫡流家であるとの記述はなく、又将軍家
臣団に編入された時期も明確ではありません。

しかし、美濃国に限ってみれば、美濃の乱以降、将軍家の美濃における直
轄地ならびに朝廷領の管理を、彼らが美濃国守護から独立しておこなって
いたことが確認できます。(光秀と朝廷・公家社会③④⑤)