惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊸

 
 
 

織田信長は発布した撰銭令に対し、翌三月には追加条項を付加しました。

明智資料㊺)

その第一項では米による商取引を禁止し、第二項では唐物の生糸、陶磁器
などの高額商品の支払いに、金、銀を用いる事を認めます。

七ヶ条からなる追加項目のうちこの二点は重要であり、信長の重商主義的な
発想を見て取ることができます。時の政権が金、銀を流通通貨として認めたの
はこれが最初でした。

しかし実際には、上洛以降も都を管理下においた織田軍は、銭に代わり支払
いに米を用いその財政を賄っていました。

元亀二年、信長は都周辺の田畠に課税し、徴収した新米を都の町衆に貸付
け、その利息米を天皇家、朝廷の運営財源としています。

信長はこの時期比叡山延暦寺を焼討ちしており、延暦寺からの金銭援助が
とぎれた、天皇、公家に対しての経済的援助がその根底にありました。

延暦寺領の強奪は光秀主導で行われており、信長は光秀に坂本をはじめ、延
暦寺領およびその利権の管理を委ねます。

天皇、公家衆が、光秀にあまり好ましくない印象を持っていたのは、容易に想
像されますが、光秀は今度は朝廷運営財源確保の為の貸付け作業に奉行と
して参加しています。

経済官僚としての光秀の才能を見てとることができますが、光秀の天皇、朝廷
に対するスタンスは、信長の命令の忠実な遂行者であり、その内容如何で、光
秀は朝廷にとり好ましくない存在に転化し、油断ならない人物でした。

光秀と朝廷の関係は、天正十年段階においても変化する事はなく、相互の交流
をみてとれる史料は存在しません。

このような人物が天皇、朝廷との関係性の中で信長謀殺を決意するはずがなく、
その理由もまた見出すことはできません。

本能寺襲撃後、光秀の対朝廷への行動は軍装のまま禁裏に赴いたことを除け
ば皆無であり、信長敗死の情報に慌てふためく禁裏の様子からも、共通な意思
が両者の間に存在していた、とみなすことはできません。

惟任日向守光秀が、天皇、朝廷と連繋して信長謀殺を企てたとの説は、明治以
来再興した天皇権力を、現在においても身近に感じる現代人の妄想にすぎない
のでしょう。


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