惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆③)




奉行衆とは奉行人とも呼ばれ、室町幕府内で右筆衆と称されるように
事務処理能力に長けた武家集団でありました。

室町幕府初期の行政・裁判機関は鎌倉幕府に倣っており、侍所、問注
所、引付方、政所等が設置されていました。

その後、管領制が成立すると、これらの機能は管領のもとに吸収された
り、侍所のように、応仁の乱前後でその歴史的使命を終わるものもあり
、これらの諸機関の機能は大きく衰退していきます。

その中で、政所のみがその機能を保持し、幕府事務機関の中枢へと発
展していきました。元々政所は将軍家の家政を司る部門であり、同時に
幕府内で貸し借り関係の訴訟を担当しており、それら経済案件に関与す
ることでその勢力を拡大したと思われます。

政所のトップは執事といわれ、伊勢氏が世襲し、奉行衆の中から選ばれ
た寄人ニ十数名と寄人代表である執事代を統率しました。

しかし実際には、伊勢家の家宰である蜷川氏が、伊勢氏に代わり実務を
担当しており、伊勢氏同様幕政に重きをなしました。

これら奉行人の出自はすべて鎌倉幕府時代からの事務官僚の家柄であ
り、この家柄以外の者が奉行衆になることはありませんでした。

例えば、奉行衆である飯尾氏は三善氏の流れを汲み、松田氏は平氏、斎
藤氏は藤原氏であり、鎌倉幕府の事務官僚としてその名を記されます。

この奉行衆の家名には、上記三氏の他に、清、治部、諏方、中沢、布施
等があり、これら奉行衆の流れを汲む者が、その後光秀の家臣団に編入
され本能寺での戦闘に参加します。

この奉行衆の対極にあるのが、奉公衆であり、武を持って将軍に近侍し、
文を持って将軍に仕える奉行衆と対比します。

室町幕府末期になると、公家の記録の中に、奉行衆の家柄にあるものが
奉公衆と記されていますが、これは将軍に仕える者との意味合いであり、
奉行衆の家柄は固定されており、伊勢氏嫡流の滅亡まで、その職務に変
化はありませんでした。




室町幕府奉行人奉書
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