本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆④)
幕府に提示し、その解決を依頼しました。
幕府内でその任にあたっていたのが政所で、鎌倉幕府以来の先例等に
精通した奉行衆で構成されていました。
政所はもとは足利嫡流家の家務を掌る組織でしたが、時代の変遷と共に
有力守護の権限縮小を狙う目的でその機能強化が図られました。
又奉行衆のなかから執事代が選ばれ、寄人と呼ばれる奉行衆を統率しま
した。寄人の総数は二十名ほどであり、この陣容で政所沙汰とよばれる裁
判を担当しました。
奉行人の出自はすでに述べましたが、鎌倉幕府以来、幕府内の事務的業
務に携わってきた家柄の者に限られており、経済力は守護家等に比較し
て低かったのですが、その反面、選良としてのプライドは高かったと推測
されます。
現在でいえば東大法学部出身者の集団と似たものがあり、法曹知識を武
器に裁判分野のみではなく、幕府内の権力闘争にも関与しました。
策しますが、事が露見し追放されます。
義材)を廃位させ、義澄を将軍に据えます。その時奉行衆の多くは、義稙
(濃州余談㊴)
これにより将軍権力の形骸化が進行し、細川吉兆体制が始まるのですが、
伊勢氏を頂点とする奉行衆は、時の権力者とともに幕府の舵取りを担って
いきます。