惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆④)




室町時代、有力寺院や武家、公家をはじめ、多様な人々が様々な問題を
幕府に提示し、その解決を依頼しました。

幕府内でその任にあたっていたのが政所で、鎌倉幕府以来の先例等に
精通した奉行衆で構成されていました。

政所はもとは足利嫡流家の家務を掌る組織でしたが、時代の変遷と共に
幕府内の裁判機能を担う役割をはたし、六代将軍足利義教の時、管領
有力守護の権限縮小を狙う目的でその機能強化が図られました。

政所執事頭人)には、足利氏譜代の家臣である伊勢氏が就き、政所代に
は伊勢氏家宰である蜷川氏が就任し、両職を世襲します。

又奉行衆のなかから執事代が選ばれ、寄人と呼ばれる奉行衆を統率しま
した。寄人の総数は二十名ほどであり、この陣容で政所沙汰とよばれる裁
判を担当しました。

奉行人の出自はすでに述べましたが、鎌倉幕府以来、幕府内の事務的業
務に携わってきた家柄の者に限られており、経済力は守護家等に比較し
て低かったのですが、その反面、選良としてのプライドは高かったと推測
されます。

現在でいえば東大法学部出身者の集団と似たものがあり、法曹知識を武
器に裁判分野のみではなく、幕府内の権力闘争にも関与しました。

文正元年(1466年)、政所頭人伊勢貞親足利義尚を将軍に据えるべく画
策しますが、事が露見し追放されます。

明応二年(1493年)、その子伊勢貞宗は、日野富子らと共に、将軍義殖(
義材)を廃位させ、義澄を将軍に据えます。その時奉行衆の多くは、義稙
ではなく貞宗と行動を共にしました。これを明応の政変といいます。
(濃州余談㊴)

これにより将軍権力の形骸化が進行し、細川吉兆体制が始まるのですが、
伊勢氏を頂点とする奉行衆は、時の権力者とともに幕府の舵取りを担って
いきます。