惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑤)




およそ百七十年にわたり続いた伊勢氏による政所頭人世襲は、伊勢貞孝
が、時の都の権力者である三好氏に討たれることで終焉を迎えます。

永禄五年、貞孝はそれまで同盟関係にあった三好氏に代わり、六角氏と
協調関係を結びます。この裏には十三代将軍義輝の画策があり、義輝の
三好氏への急接近がありました。

当時伊勢氏による政所沙汰は将軍の関与を得ることなく、頭人の指示で
奉行人奉書を作成し、該当者に発給していました。

そこには経済的案件も多く含まれ、その処理の過程での献金等が伊勢氏
に莫大な権益をもたらしていました。

将軍権力の強化を目指す義輝は、そこに介入し、この権益奪取を目論見
ますが、伊勢氏と協調関係にあった三好氏により阻止されます。

しかし義輝は、永禄元年三好氏と和解し、様々な特典を三好氏に与えて陣
営に引き入れます。それに危機感を抱いた貞孝が六角氏と結び、将軍勢
力との対決を試み挙兵しますが、三好氏に討たれました。

義輝の伊勢氏に対する処断は苛烈であり、その所領を没収し、細川藤孝
一色藤長らの側近に分け与えた上、伊勢氏一族を幕府から追放しました。

その後義輝は政所頭人として、乳人春日局の近親である摂津晴門を任命し
政所を管理下に置き、権益確保に努めましたが、将軍権力の強化に危機感
を抱いた三好氏により、殺害されました。(四人の天下人㊸)

長期にわたり政所沙汰を主導した伊勢氏の幕政からの退出は、その後の
将軍義輝殺害とあわせて、実質的な室町幕府崩壊をもたらします。

光秀の出自とされる明智氏は、奉行人を輩出したことはありませんが、将軍
義昭が信長により都を追放されると、奉行衆の家柄にある者の多くが光秀の
配下となり家臣団に組み入れられました。(四人の天下人㊴)