惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑥)



伊勢貞興(1562~1582)は、祖父貞孝、父貞良が船岡山で挙兵し、その
後戦死すると、兄貞為とともに、若狭武田氏を頼り落ち延びました。

兄貞為は、その後伊勢氏家臣団の推挙により、十四代将軍足利義栄に仕え
ますが、義栄と対立する義昭が、織田信長に奉じられ上京すると失脚します。

元亀二年(1571年)、今度は貞興が十五代将軍義昭の下で、政所執事に就任
します。これは織田信長の承認のもと行われており、信長が本法寺に宛てた
書状の中に記されています。百五十年以上にわたり、幕府内で構築されてい
た政所主導の幕府政策の決定運営体制が、貞興を名目的トップとして再構築
されているのがわかります。

貞為、貞興ともに若年であり、執事の任に堪えられるとはおもえず、奉行衆の
うち執事代の家柄の者を主軸として組織温存が図られたと思えますが、その
経緯は不明です。

又同時期、政所代である蜷川氏の当主である親長は、所領を失い、土佐国
下向しており、貞興を補佐する任にあたることができず、幼少の伊勢当主のも
と、蜷川氏の影響力を排除した奉行衆が、政所沙汰に当たっていたことがわ
かります。

蜷川親長の正妻は斎藤利賢の娘であり、利賢は光秀家臣斎藤利三の父なの
ですが、石谷頼辰との関係性も含めて興味深いものがあります。

足利義昭は幕府再興の一環として、政所の復興をめざしましたが、最終的に
は、義昭追放をもって政所の歴史的使命は終了しました。

伊勢貞興や幕府奉行衆の大多数は、その後義昭とともに鞆幕府には参加せず
、光秀の配下として延命する道を選びました。



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