惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊹




伊勢氏は平維衡を始祖とする伊勢平氏であり、南北朝時代貞継が政

所執事となり、その後この職を世襲しました。

有識故実の家柄であり、江戸時代、旗本伊勢貞丈伊勢礼法を編纂
し伝統を継承していきます。

伊勢氏嫡流家が、足利氏家臣団に組み入れられた時期は明確ではあ
りませんが、足利氏の家政を担い、次期将軍の養育係として、幕府運
営を支え、その政治力を発揮しました。

伊勢貞孝が、足利義輝と対立し戦死した経緯はすでに述べましたが、
これ以後も、嫡流家以外の伊勢氏が義輝に近侍していたのが、言継
卿記内に確認することができます。(奉行衆・奉公衆⑤)

永禄八年五月十九日、将軍義輝は、三好三人衆らにより殺害されます。
この時の様子は

御小袖之唐櫃、御幡、御護等櫃三、伊勢加賀守貞助爲警固禁中
ヘ被預申云々

とあるように、伊勢貞助が足利家家宝である御小袖等を禁裏内に運び
こみました。伊勢氏には代々加賀守を世襲する流れがあり、嫡流家と
の関係性はわかりませんが、弾圧された嫡流家に代わり、この頃は義
輝に近侍していたのでしょう。

このように伊勢氏の幕府内における行政面での影響力は強く、その力
を借りなければ、礼典的にも多くの不具合が生まれていたと思われます。

この貞助の父も又加賀守であり、伊勢加賀守貞満は伊勢流故実
法を記しています。

又光秀の家臣団に組み入れられた伊勢貞興も、返答書簡ですが、武具
や衣装等に関する伊勢流故実を記しています。(奉行衆・奉公衆⑥)

光秀は伊勢氏を家臣団に組み入れることで、その文芸趣味を一層助長
させ、彼らの知識は天皇・朝廷との折衝にいかされました。
(光秀と朝廷・公家社会㉚㉞)