惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑧)



奉行衆とは、鎌倉幕府以来の法曹事務官僚の家柄の者の集団であり政
所におけるその出自は固定化されていました。

彼らは、足利氏政権樹立時には、足利直義により統率されており、そ
の後は、伊勢氏を執事として管領の管轄下にありました。

康正年代に、管領から伊勢氏へ、政所内での実権の移行があり、その
後は、伊勢氏が全権を把握して幕府内外での所領および財政に関して
の訴訟処理にあたりました。

彼ら奉行衆なくしては、幕府の行政能力は維持できず、伊勢氏の幕府
内での影響力を高めました。

しかし、奉行衆らの法曹知識、すなわち古くからの裁判訴訟の記録など
は、平安、鎌倉時代に遡り、応仁の乱後の急速な荘園制社会の崩壊に
は対応できませんでした。

地方の戦国大名が独自の法整備を行うことで、伊勢氏が守護に任ぜら
れた山城国とその周辺でのみ、幕府の影響力が行使され、織田信長
上洛後、その影響力は更に限定的なものとなっていきます。

足利義昭が信長により都を追われた時、伊勢氏や奉行衆らは、義昭と
行動を共にせず、明智光秀の傘下に加わりますが、これは彼らが持つ
荘園社会を基盤とした法制行政能力の無用化を、彼ら自身が自覚した
結果といえるかもしれません。