本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑨)
二日の「言継卿記」内の記述で、その存在が初めて確認されます。
足利義昭が十八日将軍宣下を受け、その返礼の為参内した折、貞興は
伊勢三郎七歳、非御供
とあるように、幼少の為、御供衆には参加しなかったとあります。
幼少にも関らず、日記内に名前が記されていることで、貞興がそれなりの
待遇を幕府内で得ていたのがわかります。
相談に行ったところ、義昭に申し出るよう言われ、藤吉郎同伴のもと武家(
義昭邸)を訪問したと記され、この件は義昭は関り知らないことなので
伊勢三郎可被仰之由堅固申之
動していることがわかりますが、この時点でも若年であり、蜷川氏や松田氏
が代理で訴訟に関っていたのでしょう。
貞興は、兄貞為から伊勢家家督を譲られた、と言われていますが確たるも
りますがこれも確証のあるものではありません。
貞興は、政所執事として義昭に近侍しており、信長により義昭が都から追
放される際も、槇島城に共に籠城しています。
しかし幼少の貞興は、いまだ高度な政治的判断ができる年齢ではなく、奉
行衆の総意の下、義昭のもとを離れました。
泉涌寺 月輪陵