惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑨)




伊勢貞興は幼名を、三郎、与三郎、熊千代と言い、永禄十一年十月二十
二日の「言継卿記」内の記述で、その存在が初めて確認されます。

足利義昭が十八日将軍宣下を受け、その返礼の為参内した折、貞興は

伊勢三郎七歳、非御供

とあるように、幼少の為、御供衆には参加しなかったとあります。

幼少にも関らず、日記内に名前が記されていることで、貞興がそれなりの
待遇を幕府内で得ていたのがわかります。

元亀二年十一月九日の同記述には、泉涌寺領に関する事で、木下藤吉郎
相談に行ったところ、義昭に申し出るよう言われ、藤吉郎同伴のもと武家
義昭邸)を訪問したと記され、この件は義昭は関り知らないことなので

伊勢三郎可被仰之由堅固申之

伊勢貞興が調査するよう命ぜられたとあります。貞興が政所執事として活
動していることがわかりますが、この時点でも若年であり、蜷川氏や松田氏
が代理で訴訟に関っていたのでしょう。

貞興は、兄貞為から伊勢家家督を譲られた、と言われていますが確たるも
のではありません。又貞興正室明智光秀の娘であったと「伊勢系図」にあ
りますがこれも確証のあるものではありません。

貞興は、政所執事として義昭に近侍しており、信長により義昭が都から追
放される際も、槇島城に共に籠城しています。

しかし幼少の貞興は、いまだ高度な政治的判断ができる年齢ではなく、奉
行衆の総意の下、義昭のもとを離れました。



泉涌寺 月輪陵
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