惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊺

 
 

文明十一年(1479年)、足利義政とその子義尚の配下にある奉行衆同士

が争います。

応仁の乱後も、幕政に大きな影響力を持つ八代将軍義政と配下の奉行衆
に対し、その権力排除を目論む、現将軍義尚配下の奉行衆との確執がそ
の原因ですが、前将軍側にも、多数の奉行衆が残存して諸政にあたってお
り、若年である義尚との権力の二重構造が存在していました。

この時は、義政側が譲歩することで解決しますが、文明十七年五月には、
義政配下の奉行衆と義尚側の奉公衆とが武力衝突します。

政所執事伊勢貞宗が衝突後仲裁にあたり、飯尾元連以下奉行人四十数
名が剃髪引退する事で解決しましたが、これにより義政自身も剃髪出家
し政治から身を引きます。

これらの一連の動きの背景と混乱には、義政正室日野富子の影響力があ
り、伊勢貞宗も深く関与していました。

貞宗は、その後明応の政変において、新将軍足利義澄を支持するよう、奉
行衆、奉公衆に指示しており、義澄も政治を貞宗に委託していると述べた
と「鹿苑日記」の中で記されています。

その子貞陸は山城国守護に補任されており、この時期は伊勢氏が幕政の
舵取りを担っており、細川吉兆家に幕府の実権が移行するまでその影響力
には絶大なものがありました。
 
伊勢貞宗はその政治力の他、有識故実に通じ、伊勢流故実の集大成に寄
与しています。
 
 
 
伊勢貞宗弓術巻物
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