惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑮



後北条氏の祖である北条早雲は、伊勢盛時といい、伊勢氏嫡流家に
近い備中伊勢家を、その出自とする説が確実視されています。

早雲の父盛定は、政所執事伊勢貞親と共に、足利義政の側近として、
史料内で確認できます。早雲の母は貞親父貞国の娘であり、早雲が
政所執事伊勢嫡流家に極めて近い存在であったことがわかります。

伊勢貞興の祖父貞孝は、備中伊勢家から貞忠の養子となり、伊勢守
として嫡流家を相続しますが、足利義輝との争いに敗れ、貞興父貞良
と共に戦死しました。

早雲が関東に根を下ろした経緯は不明確ですが、応仁の乱末期の混
沌した社会情勢により、幕臣としてかねてより縁のあった関東にその
活動の拠点をおいたのでしょう。借金をめぐる訴訟から逃れる為との
説もあり、個人的にはこの説が早雲らしく納得できます。

吉田兼見の父兼右は北条氏と密接な関係を作っており、相互に情報
を提供しあっていました。(濃州余談㉙)

兼見にも引き継がれたパイプは、当然光秀も関知するところであり、
光秀が織田信長にとり始めての、甲斐攻めにあわせた関東下向に同
行した理由の一つがわかります。(光秀戦闘史Ⅱ⑬⑰)




イメージ 1