惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑩)




元亀四年七月、禁裏の調停により、信長との和議がまとまり、二条城から
宇治槇島城へ移った足利義昭は、再度挙兵します。

光秀、細川藤孝らが槇島城を囲みますが、城内には政所執事伊勢貞興
の姿がありました。貞興はこの時点まで義昭に近侍していましたが、義昭
の、三好義継のこもる若江城への移動には参加していません。

義昭のこの道中は、将軍にふさわしくない憐れなもので、人々の嘲笑をう
けたといいます。(光秀戦闘史㉖)

藤孝ら、すでに信長の傘下に入っている旧幕臣らと貞興ら奉行衆のあい
だでは何らかの合意が形成されていたと思われ、義昭の道中が秀吉らに
より、その安全が確保されていたことからもそれがわかります。

貞興はこの時点でも若年であり、蜷川氏や松田氏とともに、光秀の庇護の
もとに入ったのでしょう。

伊勢氏をはじめ、奉行衆の多くがが光秀の家臣に再編されていく過程は、
明確化されていませんが、伊勢氏の被官である三上氏、古市氏、千秋氏、
そして蜷川氏が同様に、光秀の配下に組み込まれていることからも組織
的にそれが行われたことがわかります。(四人の天下人㊴)

義昭の都からの退去により、幕府政所は実質的崩壊を遂げました。しか
し、毛利氏の庇護のもと形成された鞆幕府には、その後参加した松田藤
弘、飯尾昭連、為忠ら、奉行衆の家柄の者もいました。ただその数はわず
で、大部分は伊勢氏とともに光秀家臣団に再編されました。

幕府政所が崩壊することで、都近辺の訴訟等は、その後どのような機関
がいかに担当処理したかは、よくわかっていません。

しかし、天正三年までは、村井貞勝と光秀が代官として都の行政にあたっ
ていたことから、奉行衆の法曹知識は、伊勢氏を光秀が掌握することで、
都周辺での代官の安堵、検断作業に生かされたことは間違いないでしょう。

又信長は禁裏内にも五人の公卿による奉行衆をもうけており、彼らのもと
にも様々な訴訟が持ち込まれていました。




槇島城跡
イメージ 1