惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊻

 
 
 
伊勢貞為は貞興の兄であり、政所執事であった祖父貞孝と父兵庫頭貞良
が、足利義輝と対立し、挙兵戦死すると、伊勢氏家臣団や貞興とともに若狭国
へ逃れました。(奉行衆・奉公衆⑥)

三好三人衆により義輝が殺害されると、貞為は足利義栄に仕えますが、義輝
の弟義昭が、織田信長とともに上洛し、将軍に就任すると、責任を問われ追放
されます。(奉行衆・奉公衆⑦)

信長の推挙もあり、幕府再興を目指す義昭政権下で、今度は貞興が政所執
事に就任します。祖父、父を殺され、時代に翻弄される兄弟の姿は、哀れを誘
いますが、この兄弟は苦楽を共にしただけあって、仲がよかったのでしょう。

その後信長と義昭が対立すると、貞興と貞為は同一行動をとっており、共に義
昭を見限り、貞為は信長のもとに、貞興は幕府奉行衆らと光秀のもとに帰属し
ました。

奉行衆は貞興を長として、京都代官である光秀の配下に、組み込まれていき
ますが、織田領国の一職支配化は彼らの存在を疎外し、地域支配権を与えら
れた織田家武将は、従来からの荘園制に立脚した土地支配を根底から覆し、
彼らの存在を有名無実化していきました。

彼らの存立の基盤である山城国においても、細川藤孝による桂川の西長岡一
帯における一職支配の確立がみられ、天正三年、光秀が京都代官を辞し、丹
波攻略戦を開始すると、貞興と旧奉行衆はその歴史的使命を終え、光秀傘下
の戦闘グループへと転化していきました。(四人の天下人㊴)

貞為は都での馬揃えにおいて、伊勢兵庫頭の名で旧幕臣として参加していま
す。(光秀と朝廷・公家社会㉛)

又、安土での馬場における、爆竹を用いての馬駆けの時も参加しており、信長
の近くで活動していたのがわかります。(光秀と朝廷・公家社会㉙)

貞興は、嫡流家当主が名乗る伊勢守に任官したといわれますが、それを裏付
ける史料はありません。しかし兄貞為が、兵庫頭のまま没しているのを考えれ
ば、貞興が政所執事就任とともに、伊勢守に任官したとの説も納得できます。

信長公記」内には、義昭と行動を共にする人物が伊勢守とだけ記されており、
これが貞興である可能性は高いと思われます。
 
 
 
伊勢系図
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