惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑫)




元亀三年七月四日の日付で出された「伊勢貞興返答書」があります。
宛先不明ですが、足利将軍の軍装等を記したもので、貞興の花押
があります。

内容は高度であり、当時十歳である貞興が、記憶し書き記せるもの
ではなく、伊勢氏家臣の奉行衆の誰かが代筆したものと思われます。

これはかって幕府管領代大内義典に、政所執事伊勢貞陸が送った
書簡に加筆したものであるとの添書きがあり、秘するものであり、
人に見せないようにとあります。(明智資料㊽)

又年代不明ですが誓願寺に恐らくは祖父、父の供養の為、仏殿を寄
進したとの記録があります。

しかし義昭追放後、政所消滅とともに、貞興に関しての記録はみうけ
られなくなります。

貞興が再度登場するのは、小瀬甫安による「太閣記」のなかで、天正
十年の本能寺襲撃と、それに続く山崎戦に関する記述の中で、他の
幕臣とともに、勇猛な武将として描かれています。

秀吉関係の書物の中で、最も早い時期に書かれた「惟任退治記」内
では、該当する同戦闘内に貞興の名前はありません。

貞興が義昭追放から、戦死したといわれる山崎戦まで、どこで何をし
ていたかは、史料、俗書の中で確認することはできません。

しかし貞興が山崎戦の前後で命を落としたことは、伊勢系図などの没
年からも、ほぼ間違いないと思われます。

伊勢系図には、貞興の妻は光秀の娘であるとの記述もあり、その真
偽はわかりませんが、幼少の貞興が光秀の近くで成長したことをうか
がわせます。