惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑪)




慶長二十年(1615年)五月、豊臣秀頼淀殿大阪城、山里曲輪にて、自害し
ます。この時、ともに自害した者のなかに阿古局がいました。

阿古局は和期局とも言われ、父は伊勢貞為ないしは貞良といわれます.。史料
的に整合性が確定できず、年齢、事跡らから貞良の娘の可能性が高いと思わ
れますが、断定はできません。

いずれにせよ伊勢氏嫡流家の血を引く者であり、豊臣秀頼の教育係りとして
しだされたのは、高い教養を身につけていたからと思われ、その後淀殿の侍女
となります。

淀殿が伊勢菊(本名が菊で伊勢氏が出自であるからそう呼ばれた)を信頼して
いたのは、淀殿関係の書簡からわかります。又阿古局もそれに答えて共に最後
を迎えたのでしょう。

ほぼ同時期に、徳川秀忠の嫡男家光の乳母兼教育係りに、斉藤利三の娘、春
日局が抜擢されます。

春日局は幕府奉行衆斎藤氏の血を引く者であり、武家出身者にもかかわらず、
阿古局同様高い教養を身につけていました。

斉藤利三が高い教養人であったのは、当時の人々も認めており、阿古局、春
日局ともに、当時女性として最高の教養があつたからこそ、天下人の嫡男の養
係りに選ばれました。(四人の天下人㊱)

幕府奉行衆の集団は、武家社会で当時最高の知識集団であり、その家族も高
い教養を習得していたのがわかります。

伊勢貞為の子貞衡は、後年春日局により江戸幕府旗本に取り立てられています。

淀殿から徳川家光誕生に対する祝いの手紙は、阿古局が代筆したとも言われて
おり、もしかしたら妹の秀忠正室江に、お福を推挙したのは阿古局だったかも
知れません。