惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑬)




伊勢貞興の祖父である政所執事貞孝に関しては、政所代蜷川親俊
が記した残存する日記の中で、その行動を知ることができます。

親俊は貞孝を、貴殿と敬称をもって呼んでおり、主従関係にあること
がわかります。

蜷川氏は、山城国山科を領した宮道氏から派生しており、一族が越中
国新川郡蜷川荘に移住し、そこを本貫地とし、蜷川を名乗りました。

蜷川氏は伊勢氏と婚姻関係を多重に結んでおり、どの時点で家臣団
に組み入れられたかは明確でありませんが、蜷川親行は、伊勢貞継
縁戚関係にあり、貞継が政所執事に就任すると同時に、執事代の要
職につきました。(明智資料㊼)(奉行衆・奉公衆⑤⑥)

これ以後、両氏が政所の重職を独占していきますが、親俊は時代の波
に翻弄され、貞孝同様不遇な最後を迎えます。

蜷川氏は、伊勢氏の権力を後ろ楯にし、室町幕府の財政を掌握してい
ましたが、応仁の乱以降、幕府御料所が戦国大名により押領されるこ
とで、その支配権の及ぶ地域は限定されていきます。

丹波国桐野河内は、幕府にとって残された支配地の一つであり、政所
執事伊勢氏は、土地管理者として、蜷川氏を代官に命じ派遣していま
した。永享九年幕府は以下の文書を名主に発給しています。

御料所丹波国桐野河内事、如元被仰付伊勢守--------
年貢諸公事等厳密可致其沙汰候由被仰出候 状如件。

伊勢氏が年貢収納人であることがわかり、代官として赴いていた蜷川
氏が、この地域を実効支配していきました。

光秀は天正三年以降、丹波国全域の制圧に着手しており、蜷川氏とも
深いかかわりを持つことになります。(四人の天下人㉞㊴㊵)