惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑭)




応仁の乱後、室町幕府は各地の守護勢力に対する支配権を喪失します。

全国に百ヶ所近くあった御料所も、その年貢は押領され、山城国を除けば、
丹波国桐野河内の他には、備中国小坂郷、若狭国木津庄、富田郷などを
かろうじて実効支配しているのにすぎませんでした。

蜷川氏も、伊勢氏の代官として支配していた越中国阿奴荘を失い、桐野河
内の地が残された拠点となりました。

このように、足利将軍家政所執事伊勢氏、そして政所代蜷川氏も幕府財
政の困窮にあわせて、経済的な苦境に立たされていきます。

しかし、政所において経済的案件を扱う伊勢氏の資金力は他を凌駕してお
り、将軍権力強化をもくろむ足利義輝の策動により、伊勢貞孝は武装蜂起
に追い込まれ、子貞良とともに、永禄六年、三好勢との戦いで戦死します。
(奉行衆・奉公衆⑤)

この時、貞興は兄とともに、祖父貞孝の妻の在所である若狭武田氏のもと
に逃れました。

この後、蜷川氏嫡流家当主親俊およびその子親長は桐野河内の蟠根寺
城を拠点として活動しますが、永禄八年に将軍義輝が三好勢により殺害さ
れると、親俊は出羽国に、親長は土佐国に下向します。

この間の経緯は不明な点が多いのですが、詰まるところ、都に留まること
が、経済的な側面を含めて、危険すぎたのでしょう。

永禄十一年十一月、親俊は出羽国で失意のうちに死去しました。彼が残し
た日記内に記された、幕府中枢としての活動とは比較できない惨めな最後
でした。

嫡流家が去った後の蟠根寺城は、蜷川貞周が丹波豪族の侵略をよく防ぎ
、桐野河内の蜷川氏による支配を継続させます。

この貞周の流れは、代々伊勢氏の名前の一字である貞を付けており、
嫡流家以上に伊勢氏とのつながりの深さがみられます。

もともとは、桐野の支配は嫡流家ではなく彼らが行っていたのでしょう。
貞周、貞房は、山崎戦で伊勢貞興に従い、戦死しています。

貞興は、足利義昭が信長に追放され、政所が消滅すると、光秀の庇護の
もと、貞周らと共に、桐野近辺での明智氏の勢力拡大に、尽力したと思
われます。(四人の天下人㊴)



蟠根寺城跡
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