惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆⑮)




鎌倉幕府においても、その政権運営上、官僚機構の中心に奉行人があった。

特に、都および西国を管轄下におく六波羅探題には、多くの六波羅奉行人が
存在しました。

彼らは北条政権が滅亡すると、後醍醐天皇建武新政府雑所等に転じ、更
に足利政権が誕生すると、室町幕府奉行人として活動します。

この時期、斎藤氏は飯尾氏とともにその活動の中心にありました。足利直義
は兄尊氏から政務を委託されており、鎌倉幕府の執権制を踏襲し、引付を設
置し、訴訟を担当させました。

斉藤利泰はその中心的人物で、直義のもと幕政に絶大な影響力を持っていま
した。しかし直義が失脚すると利泰は地位を追われ没落します。

その後、奉行人斎藤氏の多くは、都から各地の守護や九州探題の奉行人とし
て転出し、斉藤基名に連なる一族は将軍近習となり、奉公衆に転化しました。

斎藤氏はこのような経緯で室町幕府奉行人としてだけではなく、幕府内外で
活動の幅を広げていきます。

光秀の重臣であった斉藤利三は、その出自には数説あり断定できるものはあ
りません。

蜷川親長の正妻は斉藤利三の妹であり、利三の生母は蜷川親順の息女であ
るとの説を考えれば、政所代蜷川氏と、多重に婚姻を重ねる利三の系統は、
奉行人斎藤氏の末裔ではないかと思われますが、残念ながらそれを裏付け
る良質な一次史料は存在しません。

奉行人斎藤氏の系図には、嫡流である基高のように基をつけるものと、利泰
のように利をつけるものがあり、利三はこの流れかもしれません。

斉藤利泰の叔父である惣領利行の娘婿は、土岐頼員(頼兼)であり、明智氏
の祖である土岐頼重の弟になります。

いずれにせよ、斉藤利三蜷川氏は、利三兄石谷頼辰を通して密接に結びつ
いており、光秀、利三、伊勢氏、蜷川氏の関係性の強固さを見て取れます。