惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

続濃州余談⑯




斉藤利賢は斉藤利三の父であり、蜷川親順女を室としており、その離別後
は継室として明智光継女を迎えたとの説があります。

光継は光秀の祖父にあたる人物といわれ、光秀の父にあたるとされる光綱
と継室である斉藤利三母は、同母であるとの説に立てば、光秀と利三は従
兄弟同士であることになります。

資料的に裏付けがとれない部分が多すぎ、確証のある説ではないですが、
両名のあいだに、何らかの血縁関係が存在することを、多くの二次史料の
中でみることができます。

石谷頼辰は、斉藤利賢を父として、蜷川親順女を母として生まれています。
室を迎えた関係で、嫡男である頼辰は、男子のなかった幕府奉公衆石谷
光政の養子となり、その娘を室としています。

利三と同母であるとの説もありますが、養子を出すならば嫡男以外であるの
はこの時代も同じであり、異母兄弟である可能性が高いと思われます。

利三と頼辰の妹は、蜷川親長の室となっており、複雑な姻戚関係を形成して
いきます。更に石谷頼辰娘は長宗我部信親の室となっており、ここに利三が
長宗我部氏との連絡役になる原点がありました。

この婚姻は蜷川親長の仲介で取り持たれており、信親の名前からわかるよ
うに、信長から拝領した信の字と蜷川氏由来の親の一字が当主につけられ
ています。

石谷頼辰は、しばしば山科言継宅を訪問し、双六を楽しんでおり、公家と奉
公衆の関係性がよくわかります。

永禄九年、信親父長宗我部元親も、頼辰に伴われ言継宅を訪問しており、長
期間にわたり、蜷川氏石谷氏、長宗我部氏そして斎藤氏の関係が構築され
ていたことがわかります。(濃州余談⑳)